たまに空を泳いでみたくなる。
 何故月はあんなにぷかぷか浮かんでいるのだろう、とか、雲が浮袋みたいだ、とか、夏の暑い日着物の袖をたくしあげて、ひんやりした井戸水の張った桶に足をつけているとふとそんなことを思うのだ。大方、暑さに頭がやられているんだろう。言ったら笑われるに違いないから、今まで誰かに話したことはない。


 私の幼なじみに綾部喜八郎という奴がいる。
 私とおんなじ忍術を学ぶ学校に通ってる奴で、天才トラパーとか穴掘り小僧と言われてる、年がら年中穴(本人は蛸壷と言い張る)ばっかり掘ってる変わった奴だ。一つ私の方が年上だが、マイペースなのか私にちいとも敬語を使ったことはない。外ならともかくとして、流石に学園内ではよくないだろうといくら注意しても聞かないから、相当図太い精神を持っているともいえる。くの一と忍者では身につけるべき術が違うし、合同でもない限り授業が被らないのが救いといったとこだろう。
 それでも廊下で擦れ違った時は、とことここちらへ駆けてきて話しかけてくるもんだから、なかなか、私達の縁は切れそうにない。


 ある時、ふと思い立って綾部にだけは話してもよかろうと思って、先刻私が記したことを話してみた。確か、突然綾部が長屋にある私の部屋に訪れた時だったと思う。 茶をいれながらかい摘まんで話をすると、綾部は瞬きを二三した後、わかったと返事した。わかったとは何だ。ちらりと見遣ると珍しくふにゃりと笑顔になってるもんだから、一瞬馬鹿にしているのかと思ったがそんな風でもない。じゃあ何、と私が首を捻れば、綾部は私のいれた茶を一口啜ってから、
 なまえ、じゃあ私と一緒に泳ごう、ときうと手を合わせてきた。
 何を言うのかと思ったが、綾部はいたって真面目だった。小さい子ならまだしも、上級生にもなる男が素面で言うことではない。昔から常々可笑しな奴だと思っていたが、これほどぶっ飛んだ話をされるとは露とも思ってなかったので、私はしばし返答に困った。蒸し暑い日であったから合わさった手がじんわりと汗ばんで、どうにも行き場に困る。苦し紛れに、どうやって、と尋ねると、ちょっと待って、と呟いて綾部は立ち上がってそのまますたすたと部屋を出ていった。その言動、行動ともに理解できなかったが、正直助かった。すーすーと冷えていく手を見つめながら、その時はそれぎり綾部が来ることはなかった。

 その日から暫く綾部の姿を見掛けなくなった。
 次に綾部に会ったのは、それから十日程経った頃だ。
 同じように私の部屋に入ってきた綾部は早々私の腕を掴んで、行こう、と言い出した。

 「行くって、どこ」

 何にも言わずにぐいぐいと引っ張っていく綾部の背中に問い掛ければ、返事は返ってこなかった。食事も風呂も済ませてしまった時分なので、辺りは暗く、じっとりとした空気だけが私の頬を撫でていく。こんな時間に長屋に忍び込んで私を連れ出して、綾部は一体何を考えているのだろう。今の格好的に先生に見付かって困るのは綾部だろうに。
 綾部が黙々と早足で進んでいくうちに、私達は中庭にたどり着いた。どうやらここが目的の場所だったらしく、少し息を切らした綾部はくるりと振り向いてにこりと馴れない笑みを浮かべる。まだあどけなさの残る表情は、何だか昔村で一緒に遊んでやっていた時のことを思い出させた。


 「なまえ、一緒に泳ごう」


 そうやって綾部は指をさした。指さされたのは、まごうことなき、綾部がいつも掘っている落とし穴もとい蛸壷だった。――否、強いて言うならば本来一人用である蛸壷より少し大きくできており、体育の先輩がよく掘っては同輩を困らせているという塹壕といったところだろうか。ともかく、はて私には綾部のしたいことがさっぱり分からない。空を泳ぎたいと言った筈なのに、これでは正反対のところに潜ってしまうし、百歩譲っても水がないから泳げやしない。

 「綾部、無理だよ。これでは泳げないよ」私は静かにそう言った。
 「どうして?」綾部は心底不思議そうな顔をした。「なまえの話した通りに作ってみたのだけど」

 綾部が私を透して視た世界はどんなものなのだろう、と思った。同じものを見たり聞いたりしても、同じ様に見えたり聞こえたりはしないとは言うものの、この穴じゃとても違いすぎる。しかし、相も変わらず真剣な目をしていたから、本当に綾部は私の望む通りに用意したつもりなんだろう。
 よくよく見れば、綾部の服や肌は泥だらけで、穴の隣には彼が肌身離さず持っている踏み鋤がどこか誇らしげに刺さっていた。

 「とにかく、折角掘ったんだから入ってみてよ」

 寝着のままだったから躊躇っていたが、とうとう綾部に促されるままに私は穴に落ちることとなった。流石、十日もかけているだけあって深い。ひゅるるる、と風を切る音が耳を霞めながら、私はひらりと着地した。続くように綾部も落ちてきて、すとんと音をたてて綺麗に地に足をつける。一瞬、二人とも落ちてしまえば上に登れなくなってしまうんじゃないかという考えが頭を過ぎったが、縄梯子がきちんと用意されていた。穴掘り小僧、流石にその辺はぬかりない。
 穴の中は予想通り、真っ暗だった。地上より些か気温は低いようで、ひんやりとした土の匂いがする。ぽっかり開いた丸い穴からまるで卵の黄身みたいなお月様が覗いていた。

 「確かにここは気持ちがいい」

 ぽつりとそんなことを漏らすと、綾部は嬉しそうな声を上げた。

 「だって、なまえと僕のために掘ったんだもの」
 「あら、そういうことは将来お前が妻を取る時に言わなきゃいけないよ」
 「妻?」
 「そう、いつかは綾部も誰かと結ばれるんだから」

 大事な時、大事な人のための殺し文句として取っておかなきゃ。
 そう言うと、綾部の睫毛がぱちぱちと動いた。それから、むううと頬が膨らんで私の頬がむんずと綾部に摘まれる。

 「あやべ、いひゃいよ」
 「なまえはたまに大人みたいなこと言うから嫌だ」
 「だっへ、年上なんだもの」
 「一つしか変わらない癖に」

 吐き捨てられた後、私の頬は解放された。ご免、と言えば、別にと返ってくる。どうやらさっきので気が済んだらしい。元々感情の起伏は激しくない綾部らしいといえば綾部らしいのだが、何だかわざとらしく思えて思わず笑ってしまった。
 それから私達は静かに夜が耽るのを楽しんだ。二人とも一旦口を閉ざしてしまえば、本当に静かである。昼間あれだけ五月蝿かった蝉の声すらしない。ゆらゆらとやって来る眠気に身を任せるように瞼を閉じれば、ふわふわと雲の上に浮かんでいるような感じがした。

 「ねーえ」
 「ん、なあに。喜八郎」
 「楽しい?」
 「うん、楽しい」
 「そりゃよかった」

 土のついた手が柔らかく私の髪を梳く。まるで幼子をあやすみたいだ。確かに綾部の言う通りだと私は思った。あれだけむきになっていたのに、一つしか変わらないのに気を張りすぎていたのかもしれないと思えてしまうから不思議だ。
 目を開けると、綾部はいつもの無表情でじいとこちらを見ていた。

 「そろそろ上がろっか」
 「うん」

 縄梯子を登る途中、綾部がなまえ、なまえと私の名を呼んだ。


 「なまえのためだったら、いつでも私は空を泳ぐよ」


 黄金色した月が綺麗に輝いていた。


 

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