僕には嫌いな人がいる。彼女はいつも図書室にいる。

 先月から総合の時間に調べ物をすることになった。グループを組んであるテーマを調査し、そして発表。ゆとり教育が生み出したよくわからない科目のよくわからない授業だった。僕は団蔵とペアを組んで役割分担して、昔のからくりについて調べることにした。そこで毎日放課後になると、僕は図書室に行って調べることになった。ただの公立の学校なのにうちの学校は歴史的な資料をいくつか揃えている。団蔵は近所の博物館で実際に現物を見ている。正直少し、羨ましい。
 図書室はいつも静かだった。委員が三人とあとはちらほら人がいるだけの空っぽな空間。僕はロボットになったかのように調べてノートに写す作業を幾度も繰り返す。レファレンスは頼らなくてもさほど困らないので利用しない。
 その中で気付いたのが彼女だった。彼女は僕がいつ図書室へ行ってもそこにいて、本を読んでいた。見ている限り、図書委員であるのは間違いなかったが、他は毎日入れ替わっているのに彼女だけはいつもいる。委員長かとも思ったけれど、上履きの色は赤、僕より一つ上の二年生らしい。よくわからない存在だ。彼女は初めのうちはただ本を読んで時折仕事をしているだけだったけれど、そのうち僕の存在に気付いて声をかけるようになっていた。こんにちはとさようなら。何読んでるのという質問。彼女は髪を耳にかける癖があった。はにかんだ笑顔は幼くて、僕は心臓に産毛が生えたみたいなむず痒い気持ちになった。

 僕は彼女が嫌い。理由はわからない。


 今日も彼女は図書室にいた。

「昔、タンギングが上手くできなかった」
「それが何か」
「リコーダだよ。小学生の時やったでしょ。何度も何度も練習したんだけど、とてもテレビで見たプロの演奏家みたいにはなれなかった」

 夕暮れ時の朱色の中で、こんにちはと口を動かして本片手に近付いてきた彼女はどこか遠くを見ているようだった。古い本の匂いがとても神秘的な雰囲気を漂わせる。髪を耳にかける音がわずかに聞こえた。

「要はできることというのはあまり関係ないの。能力的なものは役に立たない。大事なことはそれをやるかやらないか、ただそれだけ」そして彼女は微笑む。「だから、その話はもうおしまい。ここは図書室だから静かにしなきゃね。私も仕事に戻らないとそろそろ先輩に叱られちゃう」

 それから僕は調べ物を二、三調べ、ノートに書き写していった。彼女は貸出の業務を任されたみたいで、カウンターに座って静かに本を読んでいた。前に読んでいたものとは違うようだ。開け放った窓から時折やってくる風にわずかに頬を緩ませ、ただページをめくっている。とても静かだった。相変わらずここは利用者が少ないようで、僕と委員以外には生徒が一人と先生が一人いるだけだ。めいめい本を探したり、宿題をしていて、やってることは皆あまり変わらない。
 大事なことはそれをやるかやらないか、ただそれだけ。
 僕はしかとその言葉を受け入れる。そして息を吐く。思いの外、気を張っていたようだ。深く呼吸するとみるみるうちに身体全体が安らいでいった。
 本を元に戻して図書室を出る時、彼女はふと顔をあげて小さく手を振った。またね。そう口が動く。僕は気付かないふりをして戸を閉める。
 廊下に出ると、さっきまで聞こえなかったグラウンドで部活をしている音や教室でキャーキャー話してる女子の声が一気に耳に入ってきた。まるで時が動き出したみたいに聴覚が鋭敏になっていた。そして僕は気付く。あそこは時間がなくて、そこにいる彼女も時間という物質を失った存在であるのだ。だから僕は彼女が嫌いなのだ。一度その概念を理解してしまえば呆気なかった。
 靴箱まで下りると、団蔵がカッターシャツを肘の辺りまで捲りあげてそこで待っていた。僕は上履きから白いランニングシューズに履きかえて、爪先を二度ほど蹴ってしっかりと感触を確かめる。そっちはどうだった、と経過を訊ねる団蔵にまあまあかなと答えて自転車置き場まで歩いた。活発な団蔵の肌は僕に比べて随分と日に焼けている。僕はふと考える。彼女はどうだったろう。あの、髪をかける仕草を思い出す。耳たぶの乳白色を思い出す。そうだ、彼女は白い。それはわかりきっていたことだった。図書室にいる彼女は太陽をあまり好んでいないようだった。もちろんこれは僕の推測にすぎないが、推測することは大事なことだ。仮定を繰り返して人は進化する。僕はそっと持っていた鞄を握りなおす。頭に彼女がちらついて離れない。団蔵が眩しいくらいの笑顔で「もうすぐ夏だなー」と言った。夏がくれば蝉が鳴く。扇風機が回る。波の音がする。夏がくれば、彼女は一体どこで何をするのだろうか。図書室は夏休みの間、始めと終わりを除いて閉まることになっている。僕は図書室の彼女以外、何も知らない。

 次の日も彼女はそこにいた。今日は本の整理をしているみたいで、先輩の隣に並んでふわふわ笑いながら本棚の前に立っていた。彼女は僕に気付くとこくんと首を傾げて、こんにちは、と口を動かした。僕は適当な図鑑を選んで昨日と同じ席について作業を開始する。もっともその前もその前も同じ席だから、もはや定位置となっている。筆箱の中からシャープペンシルを取り出してノックを二回。ノートに箇条書に書き出す単調な作業の繰り返し。一度だけ席をたってペットボトルの麦茶を飲んだ。そこからまた資料を変えてノートに写す。ふと机を指先で叩く音が聞こえて視線を上げると、向かいの席で彼女が肘をついて柔らかく微笑んでいた。

「今日は当番じゃないの。先輩が忙しそうだったから少しお手伝いしてて。ねえ、ここで本読んでていい?邪魔しないからさ」
「どうぞ、好きにすれば。別にここは僕のものじゃありませんし」
「ありがとう」と彼女は言った。

 僕がノートに書き写している間、彼女はずっと本を読んでいた。ハードカバーの分厚い本をただ静かに読んでいる。頬に落ちる髪を一束耳にかける。ピンで留めてしまえばいいのに。そう思ったけれど声には出さない。その動作も含めて彼女のアイデンティティは成り立っているんだろう。ならば、僕はどんなに彼女が嫌いでも口出しすべきではない。意味をなさないからだ。面倒なことは嫌いだった。僕は時々複雑な仕掛けをつくるけれど、それが僕のアイデンティティであって、たとえ親友の団蔵がましてや両親が口出ししたところでやめるつもりはない。
 二時間ほどそれを繰り返して閉館時間になった。おおよそ予定通りに進んだ。僕が片付けている間も彼女は本を読んでいた。既に借りているんだろう。僕を待ってるらしかった。

 彼女は言う、「終わった?ちょっと話がしたいなあ、なんて」

 図書室を出て早々、彼女はイチゴミルクは要るかと訊いた。

「甘いの平気だったら是非。飴はいつも入れてるの。チョコだと暑い日溶けちゃうし、スナック菓子は私不器用だから潰しちゃうから」
「要らない。甘いのはあんまり好きじゃないんです」
「残念、おいしいのに。君が毎日調べ物してるのって総合の授業だよね。私も友達と一年前にしたよ。何調べてるの、差し支えなければ教えてほしいな」
「からくり。好きだから」
「へえ。すごい」
「別に。何でもないでしょう」
「そう?でも、今日日インターネットでばぱっと調べて終わるのに、それはすごいと思う」

 図書室にいる時から思っていたけど、彼女は些か似つかわしくないほどお喋りであるようだった。まるで音楽の一種であるかのような旋律で彼女は話す。僕は鞄を握りしめ、窓の向こうを見つめる。相変わらずグラウンドからは運動部の掛け声が聞こえて、教室からは今度はブラスバンドのオーボエとフルートの音色が聞こえる。時はつつがなく流れている。

「僕はあんたが嫌いだ」と僕は呟いた。
「それは生理的に?」
「時間を感じないから」
「うん。でも、今、私はここにいる。時間に沿って食事をして歯を磨いて、学校にも行くし、時々寄り道してコンビニにも行く。もちろん睡眠だってするよ。私は生きてる。人間として」彼女は息を吸う。そして吐く。「知ってる。気付いてないかもしれないけど、私を見る時少し睨んでるんだよ。素直なのはいいことだけど。私は気にしないし。昨日も言ったけど、能力はさして興味はないの」
「やるかやらないか」
「大事なのはそれだけ」

 用はたいしてなかったらしい。彼女は伸びをすると、最後に名前を教えてほしいと言った。君と言うのはむずむずするようだ。僕も慣れないし腹立たしいので、正直に答えた。笹山兵太夫。それが僕の名だ。

「笹山君ね。私はみょうじなまえ。まあ便宜上使いたければ。なんか笹山君にあんた呼ばわりされるのしっくりくるような気がするし。変な話だけど」

 しかし、僕は彼女の名前を反芻する。頭の中で二、三度繰り返す。繰り返しながらあまのじゃくだなと思う。みょうじ先輩と呼ぶと、彼女は目を細めてえくぼをつくった。じゃあね。手を振る仕草はいつも図書室で見るのと寸分変わらなかった。
 僕は彼女の背中を見送りながら、静かに息をつく。鞄の柄をぎゅっと握りしめ、真っすぐ切り揃えた前髪を撫でる。腕時計の秒針がカチカチと音をたてた。時間はそこにある。
 もうしばらくしたら、僕は調べ物をあらかた終えてしまうだろう。あとはポスターにまとめるだけだし、図書室に行くこともなくなるだろう。僕はまた元の日々に溶け込んでいくだけだ。彼女にだって会うことはない。彼女は別の世界に生きている。介入はしない。僕と彼女のアイデンティティは別のところにある。でも、また一方で同じところにある。同じ磁極の中にいる。
 僕は今日も待っているだろう団蔵のところへ向かうために階段を下りていった。靴箱の端っこのほうで彼女の髪が揺れた気がしたけれど、たぶん気のせいだ。彼女はとっくに帰って、舗装された道を歩いている。そんな気がする。
 靴箱まで来たところで、団蔵が手を振るのが見えた。おーい、こっちこっち。僕はそれに応えて手を振りかえす。僕は笑った。



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