“妖様”

果たして、その名で呼ばれていたのは幾年月前であったか。
今や聞くことの出来ぬ、けれど忘れることも出来ぬ声音を聞いた気がして、目を開いた。
視界を埋めるは鮮やかな満月。
銀色の光は闇夜を照らす。

「転寝でもされておりましたか」

「達磨か、そのようじゃ。懐かしい夢を見ておった」

ぬっと現れた気配に驚きもせず、遠く満月を見やりながら目を細めた。

「ざっと四百年ほど前かのう」

募らせた想いの届く先は何処(いずこ)だろうか。天か、地か。
その想いの相手を知る達磨は、その胸に切なさを感じるも表面には出さず、少しばかりの昔話に興じることで応じる。

「…人の世は、徳川が豊臣を攻め落とさんとしておりましたな」

「うむ。何処も浮き足だって、落ち着いとらんかった」

「はい」

「夜だというのに、騒がしくてのう。まぁ、今の世に比べれば静かじゃったな」

時代のうねりなどいざ知らず、血気盛んに夜の京でしのぎを削り。蠢く流れに、血を沸かせた。
吹く風は追い風にしか感じられなかった。
一夜出会った鈴の音に、心奪われたのもそんな時。


“妖様”

“ぬらりひょん様”

“旦那様”


今はもう記憶の中にしかいない姿が、声が懐かしく蘇る。
なんとまぁ、久しい夢を見たものだ。
ああ、そういえば。
鼻先を掠めた香りに、昼間、庭の一角で花を咲かせた橘を見たことを思い出す。
白い花弁は葉の緑によく映え、その姿は健気であった。
橘には『昔を思い起こさせる情緒がある』とあれは言ってはいなかっただろうか。先人はそうして和歌に詠んだのだと。
人間のことは分からぬ。だがしかし。
そうじゃのう。
今宵は橘の香りと満月を肴に、酒を酌むのも悪くはない。
隣で酌をするお前はいないけれど。

「どれ、達磨。一杯付き合わんか」

「月見酒ですかな」

「ふぁっはっはっ。何でも良いわい」

「では、準備をさせて参りましょう」




香る橘。照らす銀月。
そして穏やかに皐月の夜は深まっていく。








さつきまつ 花橘の 香をかげば
昔の人の 袖の香ぞする
(詠み人知らず)










(09/06/04)

ほんのり祖父母。
珱姫が総大将を妖様と呼んだのに萌えたのです。


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