夜明け前。 未だ眠ることのない街を後目に、俺はようやく帰宅の途に着いた。 始発が動き出すのを待っていても良かったのだろう。 臨也もそう言っていた。だがそんな言葉には耳を貸さず、タクシーでここまで帰ってきたのは、用も済んだのに長々と近くに居たくはなかったからだ。 誰しも気疲れるする相手と時間を共有していたくはない。 部屋へと続く階段をなるべく静かに上がっていく。古びたアパートの階段はそんな努力を虚しくさせるくらい、予想外の所で音を鳴らすけれど。 寝ているだろう同居人を起こさないようにそっと開けた扉を閉めれば、たちまち外界から遮断された。 ここは二人だけの居場所だった。 閉じた、空間でもあった。 くたびれて眠くて、そのまま布団に潜り込んでしまいたくて仕方がなかったけれど、辛うじての理性がそれを押し留めた。 音は出てしまうが致し方ないだろう。換気扇を回し、脱いだ衣服を洗濯機に突っ込み、浴室にドアを押し開けて入り、蛇口を捻り、勢いよく流れ出した熱い湯を頭から被る。 シャワーで全て洗い流して、そこでやっと一息つけたような気がした。 今回の呼び出しで、臨也に付き添って出かけた先で何故かいざこざに巻き込まれ、喧嘩染みた立ち回りを演じるはめになった。 出来れば、その空気や匂いを彼女の回りに持ち込みたくないのだ、自分は。 あの日の記憶を思い出させたくない、二度とあんな場所には近づけたくない、そんな自身のエゴの為に。 浴室から出て室内に戻ると、窓の外が白み始めていた。 どうやら夜のうちに眠りに就きたいという細やかな望みは叶えてくれないらしい。 時計はあえて見ない。見れば余計にため息を吐きたくなるのが分かっていたから。 (呼び出すなら時間考えろってんだよな) 仕事だというなら、多少の不満はあれど受け入れる。受け入れるけど。 やっぱりため息が出た。 「…ため息なんか吐いてると、幸せが逃げちゃうよ?」 「っ!沙樹」 寝ているものだと思っていた彼女の声が静かな部屋に通って驚愕した。 びっくりして振り向けば掛け布団の下から顔を覗かせていて、さらには明らかに寝起きの声ではなくて。 「お前何で起きて!」 「おかえり」 「…ただいま。ってか先に寝てろって言っといただろうが」 「うん。だから寝たよ?早めに寝たから早く起きたの」 「早く起きたって、お前なぁ」 「ふふふ、びっくりした?」 (ええ、びっくりしましたとも) それが本当かどうか確かめる術を自分は持っていない。 企みが成功して嬉しそうに笑う沙樹を見ていれば、そんなことはどうでもいいような気さえしてくる。 なら彼女を信じるしかないのだろう。 彼女の優しさを受け入れる。 「……はぁ」 「だから、ため息吐いてると幸せ逃げちゃうよ?」 「…そうさせてるのは誰だよまったく」 「えー誰かなー」 苦笑が漏れる。 結局のところ、信じて信じられてそうして俺たちはやっていくのだ。 これからずっと、ずっと。 そしてようやく、俺は髪の毛は半乾きのまま布団に潜り込んだ。 沙樹の隣に横になったら、ふっと太陽の匂いが薫った。 枕にも布団にも太陽が染み付いている。ほっとする、安心する匂いが。 「…いい匂いだ」 「あったかくなるよね」 「うん」 昨日は晴天で、久しぶりに布団を二人で干した。洗濯も一緒にして、食事の支度も一緒にやった。 夕飯時を過ぎて臨也に呼び出されるまでは、細やかで穏やかな日だった。 穏やか過ぎるくらいだった。 「………なぁ、沙樹」 いつまでもこの空間に居続けることは出来ない。 そんなの分かってる。 いつか二人揃ってこの閉じた空間から夜の明けた街に出ていくのだ。 帰りたい場所、会いたい人たちのいる場所に沙樹を連れていくのだ。 「うん?」 「起きたら買い物に行こっか」 「買い物?」 「そう」 だけど、それがすぐ来ないことも分かっている。 未だ自分は逃げているから。 暫くはまだこの閉じた空間からあの人が持ってくる非日常に向かい、時に嫌悪したり文句を言ったりしながら、沙樹との日常を過ごす。そんな日々が続いていくんだろう。 いつかの夜明けを見る、その時までは、きっと。 「近くのスーパーにさ、手を繋いで行こうぜ」 そのいつかの時、この欠けた日々が愛しく思い出せたらいい、そう思った。 夜明けの優しさに代えて (10/10/28) 夜明けや夕暮れには、少し寂しくて物悲しくてでも優しくて温かい、そんなイメージがあります。 正沙にも似た空気があると思うんだ。 ※ブラウザバックでお戻り下さい |