それが、始まりとも知らずに | ナノ


それが、始まりとも知らずに

 天気のいい昼下がりだった。
 顔見知りの他のクラスの女の子何人かにつかまって、他愛もない話をしながら歩いていると、見慣れた頭がひょこひょこ動いているのを見つけた。ジャックだ。
 ところどころ、点々と日向ぼっこを楽しむ候補生が散らばる前庭の芝生の上。両足を投げ出して座り込んでいったい何をしてるんだろう。
 いろいろと話しかけてくる女子の話は、申し訳ないけれどまったくといっていいほど耳に入って来なくなった。芝生を囲んだ柵をわざわざ乗り越えて、ジャックに近づいていく女の子がいたから。
 何やら話しかけられたジャックは、にこやかに頷いてそっと身体をずらした。そこにいたのは、小さな毛玉。どこから入りこんだのか、一匹の猫。ジャックの傍らに膝をついた彼女は、じゃれつく猫の腹を撫でている。ジャックはその様子を、目を細めて眺めていた。
 なんだ、猫か。猫と遊んでいたジャックと、それと同じように猫と遊びたかった彼女。ただそれだけのことだと胸を撫で下ろす自分がいて、そんな自分に少なからず驚く自分もいて。私はそれを誤魔化すように、話し続けている女の子たちにもう一度意識を集中させた。
 話しながらも歩くことは止めなかったから、当然私たちはジャックのすぐ側までたどり着いてしまった。何もやましいことはないはずなのに、なぜだか今ジャックと顔を合わせるのはなんとなく決まりが悪いような気がした。どうしようか、このまま気づかないふりをして通り過ぎてしまっても……と思った矢先、ばちり、ジャックと目が合った。
「ジャックじゃないか」
 こうなってしまったら、無視するのは不自然だ。平静を装って、私はジャックに声を掛けた。ぱっと顔を輝かせて、ジャックが手を振り返してくる。
「私たち、闘技場に行かなきゃ」
 気を利かせてくれたのか、女の子たちがそう言ってくれた。これ、よかったらどうぞ、と小分けになったクッキーを何個か手渡してくれる。
「ありがとう。じゃあ、ここで」
 またお話しましょうね、と手を振ってくれた彼女たちに頷き返し、私は芝生の柵を飛び越えた。そのまままっすぐ、ジャックの座っているところまで歩く。
「セブン、あの子たちいいの?」
 にこにこ笑いながらも、別れた彼女たちを気にしてちらちら視線を投げながらジャックが聞いてくる。私は、肩をすくめて答えた。
「用件は済んでいたんだ、構わないよ」
 もともと用件なんて言葉を使うほどの用事でもなかったんだし、とは言わずに、ジャックの隣に腰を下ろしてその膝の上で丸くなる猫に手を伸ばした。
 首輪もしていないし、いろいろな血が混ざってそうな感じの野良猫だろうとは思うけど、薄い茶色の毛並みはつやつやとしていて、なんとなくジャックみたいだな、と思う。不用意に手を出しても、毛を逆立てたり威嚇したりすることのない、人懐こいところなんて特に。
「かわいいな、こいつ……」
 もっと撫でて、と訴えるように喉元を差し出してくるから、私はそのとおりそこを掻いてやった。指先に伝わる、猫が喉を鳴らすごろごろいう音が心地よかった。そうしたら。
「……いいなぁ」
 と、聞こえてきた低い声。猫を撫でる手を止めて私はまじまじとジャックを見つめた。不満そのものを訴えるような、じと目。唇まで尖らせて。
「なんだ、ジャック。羨ましいのか?」
「うん」
 即答だった。からかうつもりで、それをむきになって否定するジャックを想像していた私は、少なからず不意を突かれて口を噤んだ。会話の内容自体はまったくふざけていて他愛のないものだったはずなのに、細められたジャックの瞳はどこかひたむきだったから。
「……猫にやきもちやいてどうする」
 変なやつだな、と笑ってみる。そこで笑うの? と、ジャックは何やら複雑なふくれっ面だ。頭の上で話し込んでいる人間二人を、猫は大きな瞳で観察している。撫でることを止めた私の手を、ぱしぱし叩きながら。そんなやつほっといて、もっと遊んでよ。そう言っているような猫に応えて、私はまたその頭を撫でてやる。
「セブン、僕も撫でて」
 そんな私たちを眺めていたジャックが吐いた言葉に、またも私は言葉を失った。まるで、猫と同じだった。もっと構って、こっちだけ見て、と甘えるまなざし。気恥ずかしそうに、照れながら、けれどもやっぱり透けて見えるのは頑なな真剣さ。
「何言ってるんだ」
 その仕草が本当に猫にそっくりだったから、私は声を出して笑ってしまう。それに、こんな小さな相手に本気で嫉妬するなんて。私を挟んで、猫対ジャック。そんな図を思い浮かべるだけで、おかしくてしょうがない。
「……だめぇ?」
 とうとう猫を羽交い絞めにして、ジャックは小首を傾げて私を見上げる。それは反則だ、と私は思った。いつもの身長差は、座っているせいでほとんどない。そんなふうに見つめられたら、邪険にできるわけないってわかってやってるな。
「しょうがないな、いい年して」
 私は観念して、そっとジャックの頭に手を置いた。まだ私の身長がジャックより高かった子供の頃、よくこうしてやったっけ、と思い出しながら。
「ジャックは頭を固めすぎだ」
 あの頃さらさらで柔らかかった髪は、今は整髪料でしっかり整えられている。手に心地よかったあの感触も、猫の毛並みのようだった。
「だってぇ、ちゃんとセットしないと」
 かっこ悪いでしょ? えへへ、と嬉しそうに身体をよじって、ジャックは言う。いつから、ジャックはこうやって身だしなみに気をつかうようになったんだろう。私は、それを思い出せない。
 こうして、甘えてくるのは昔のままなのに。と、私はジャックの頭を撫でていた手を、その頬に滑らせた。気づかないうちに、ジャックが大人になったようで、少しさびしいような気もする。遠慮なくすり寄ってくるジャックはやっぱり猫みたいで、私の知っているジャックそのものだったけれど。
「くすぐったいや……」
 肩をすくめるジャックにつられて、私も笑う。その身じろぎで、ポケットの中身がかさりと音をたてた。それで、思い出した。
「そういえば、さっきの子たちにお菓子をもらった」
 手作りなんだろうか、包んであるパラフィン紙はちょっとよれていたし、結んである小さなリボンもなんとなく不格好だった。一生懸命作ってくれたんだろうな、と微笑ましい気持ちになる。魔導院に来る前は、私たちもよく作ったっけ。
「美味しそうだねぇ」
 ジャックが、目を輝かせる。ジャックは、甘いものが大好きだった。女子だけでキッチンに集まってクッキーやらマフィンやら作っていると、いつの間にかジャックが紛れ込んでいて、焼き上がったお菓子を冷めるのも待たずに片っ端からつまみ食いして、よくクイーンに追い出されていた。
 そんなジャックだから、もちろんわけるつもりでいた。持ち帰っても、みんなの分はないし。でも。
「……さっきから、猫を触ってるだろう」
 私がそう言うと、ああ、と両手を眺めてジャックはため息をついた。
「マザーに、動物を触ったら手を洗いなさいって、昔から言われてたよねぇ」
 目に見えて解るほど、ジャックはがっかりしている。お前のせいだぞ、なんて猫をつついたり、まるで八つ当たりだ。今すぐ食べるのがダメだと言うだけで、食べられないわけでもないというのに。
 とはいえ、クッキーがあるのを見せたのは私だし、見せておきながらお預けにしてしまったのも私だ。お詫びの気持ちも込めて、もう一回だけジャックを甘えさせてやろうか。私の中に、悪戯な気持ちがそっと頭をもたげた。
 未練がましく手の中のクッキーを見つめていたジャックの視線を感じながら、私はそっと包み紙を破いた。そして少しだけクッキーを出して、そのまま唇にはさむ。
「あーあ、セブン、お行儀悪い〜」
 いつもは逆の立場のことが多かったから、ジャックはここぞとばかりに声をあげた。どことなく得意げなその顔がいつまで持つかな、なんて思いながら、私は素知らぬ振りでジャックに向き直った。
「ん」
 顎をあげて、促す。私が何をしようとしているのか、はじめジャックにはわからなかったに違いない。たっぷりふた呼吸分はまじまじと私を見て、それからこくりと唾を飲み込んで、えっまさかそんなこと、とうろたえつつも訊ねてくる。
「……そのまま、食べていいの?」
 もちろん。だって、食べたかったんだろう、今すぐに。私は、そう言うように頷いた。何を考えてるのか知らないけれど、めずらしく真剣なまなざしでこっちを見つめるジャックの瞳を、同じように見つめ返しながら。
「じゃあ……遠慮なく」
 座り込んだ私の目の前になぜか正座して、ジャックはそっと顔を近づけた。ゆっくりと躊躇うように、それでいて実は逸る気持ちを必死で抑えつけているかのように。どうしてそこで、目を閉じる。もう少しで笑い出しそうになってしまったけれど、私は必死でそれを堪えた。
 でも、目を閉じてくれたのは、私にとってはむしろ好都合だったな。ぎゅっと目を閉じたままのジャックには、わからない。ジャックの唇がクッキーに届くか届かないかのタイミングで、クッキーをかじって逃げることを私は企んでいたんだから。
「むー!」
 企みは、まんまと成功。するりと身を引いて立ち上がった私に気づいたジャックが、クッキーをくわえたまま声にならない声を上げてにらみ上げてくる。
「ちぇ〜。セブンってばひどいよ。僕の気持ちを弄んだりして」
 もぐもぐと咀嚼しながらそう言ったジャックに、私は肩をすくめて笑う。
「なに言ってるんだ、人聞きの悪い。クッキーの大部分はお前に譲ったんだから、それでもう満足だろう」
 しれっとそう言うと、ジャックは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。かと思えば、相変わらず膝の上にいた猫に何やらぶつぶつ呟いている。あれはちょっとひどすぎるよね、なんて、さっきまで八つ当たりしていた相手に今度は味方になってもらおうとしてる。
 ところが猫は、興味なさそうに欠伸をひとつ。それから、ジャックの膝の上からするりと抜けだして、後ろを振り返ることもしないで走って行ってしまった。その様子がおかしくて、私はまたこっそりと唇を微笑ませた。
「……行っちゃったね」
 せっかくこれから、二人してセブンをとっちめてやろうと思ったのにさ。そう言って、ジャックはいかにも残念そうに猫の後姿を見送っている。少しだけ色を濃くし始めた太陽の光の中、猫の背中はすぐに見えなくなってしまった。
「家に帰るんだろう。私たちも、帰ろう」
「うん」
 促せば、ジャックは立ち上がって制服についた細かい草や土埃なんかを払った。
「ねえ、セブン」
 私の後を追いかけて歩き出したジャックがそう呼んだから、私は歩きながら振り返った。
「なんだ」
「帰ったら、さっきの続き、してもいい?」
 はにかんだように微笑みながら、それでも挑むような鋭い視線。さっきの、続き。ああ、あれか。私は苦笑しながら答えた。
「続きなんてしなくても、いくらでも分けてやるよ」
「はい?」
 何のことを言ってるのかわからない、そんな感じで目を丸くしながら聞きかえしてきたジャックに、私は首を傾げた。変なやつだな。今日は、本当にどうかしてる。
 もらったクッキーならまだ何枚かあるし、寮に帰れば共有キャビネットにストックも残ってるはずだ。そうだ、ちょうど時間も頃合いだし、お茶でも淹れようか。
 そう提案したら、ジャックはなんだかとてつもなく落ち込んだようにがっくりと肩を落とした。そんなジャックにやっぱり首を傾げながら、私は足取りも軽く寮を目指す。



 それが始まりだった。その時は気づかないふりをしていたのか、本当に気づいていなかったのか、私自身にもわからないけれど。
 いつもと同じように見える邪気の無いジャックの振る舞いに、実は隠されていたとんでもない思惑と望み。それが明るみになって、気づかされた私の想い。
 それらが、いくつもの驚きと一緒になって私の身に降りかかることになるのは、もう少し後のことだった。





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