覚醒 3 | ナノ


覚醒 3

 初めによみがえったのは、熱さだった。
 熱は、輪郭を象るように広がっていった。指先から腕をたどり、つま先から脚を這い上がり。そうして胸の中心に行きつく頃には、それは大きな塊となって再生した身体に宿る。
 次に還ってきたのは、鼓動だった。その音は、地鳴りのように大気を揺るがし響いた。とてつもなく大きく、しかし穏やかに。鼓動がひとつ打たれるたびに、それを追いかけるように激しい熱が全身を駆け巡った。
 熱が促す鼓動、鼓動が連れてくる柔らかい痛み。繰り返されるそれは、容赦なく俺を急かした。戸惑いも躊躇いも、そんなことを考えている余裕などあるわけがないと言わんばかりに、芽生えたそばから吹き飛ばされた。何に、かはわからない。それを訝しがることすらできなかった。
『……あなたたちは、前に進みなさい』
 遠く、背後から声がした。誰の声なのか、俺は知っているような気がした。だけど、振り返ってそれが誰なのかを確かめることもできなかった。遠く離れているはずなのに、俺はその声にすぐ後ろから背中を押されているようだった。
 その声は、続けた。
『これからの世界は、死を忘れることのできない世界になる』
 これからの世界? 死を、忘れることができないって、どういうことなんだろう。その意味を知りたくて――知らなければならないように思えて――、俺は立ち止まりかけた。けれど、見えない何かが俺の手を強く引く。それに抗えずに、俺はただ言われた通り前へ進むしかない。
『……だから』
 何がそうさせているのだろう。声が、わずかに滲んで揺れる。目の前には、眩い光。それに目を眇めて、初めて気がついた。俺は、闇の中を進んでいたのだと。だんだんと強く激しくなる光の勢いに飲み込まれて、俺の意識は次第に薄れていく。でも、その声が最後に呟いた言葉は、やけにはっきりと俺の耳を打った。
『だから……あなたたちは、あの子たちを憶えていてあげて』
 波間を漂う小舟のようにゆらゆらと浮かぶようだった身体が、何かに引き寄せられるように重くなっていく。沈んでいく身体とは逆に、意識はぐんぐん浮上していく。立ち込めていた闇を払いのけ、滲み出る光を追いかけて。
 その道すがら通り過ぎていくのは、人の影だった。明るい方へと導かれる俺とは逆に、それはすれ違い、闇の水底へと降りていく。いくつも――何人も何人も。
 忘れるわけないじゃないか。わずかに心が触れ合って、みんなの声が聞こえるたびに、俺はそう思った。労いの吐息、祝福の叫び、乱暴な感謝の言葉、からかうような励まし。そのどれもが知った声で、けれどもやっぱりその顔は翳ってはっきりとはわからない。
 だけど、それが誰なのかははっきりとわかる。だってそうだろう? あいつらは、生き残った。審判者に勝ったんだから。あいつらからもらった想いを、俺たちは力に変えて返した。世界を終わらせたくないと強く願ったあいつらの助けになることが、俺たちにできるたったひとつのことで、それは幸運にも成し遂げることができたんだから。
 だから、礼を言わなければならないのは俺たちのほうなんだ。
 光は、失われてしまったわけじゃなかった。そう思い込んでいただけだった。
 そう気づかせてくれたのは、あいつらだったんだから。



 固い石畳の冷たさ。吹きつける風の柔らかさと、響く波の音。潮の匂い。
 内側からじゃなく外側から与えられるその感触が、現実に俺を目覚めさせた。指が動く、目も開けられる。重い身体を持ち上げて、起き上がる。
 次第に焦点が合いつつある視界に映ったのは、見慣れた景色だった。海に浮かぶ要塞のような、魔導院とそれを支えるように裾野を広げる街。そこから伸びる長い橋。その上に、俺はいた。
「……レム!」
 すぐ側に、レムが倒れていた。まだ立ち上がることはできずに、俺は這うようにしてレムのもとへ急いだ。
 仰向けに横たわって目を閉じているレムが記憶のどこかのレムと重なって、俺の胸がしんと冷える。名前を呼びながら、恐る恐るその頬に触れてみる。あたたかい。それだけで、凍てついた心が一気に融ける。
「レム……レム!」
 肩を揺り動かしつつ何度か名前を繰り返せば、ぴくりとレムが身じろぎした。
「う……マ、キナ……?」
 うめき声の後、ゆっくりと開かれるレムの目蓋。その奥の瞳の色、俺の名を呼ぶ声。レムがいつもの――昔から知っている――レムだってことに、俺はなぜかひどく安堵した。
「私たち……」
「ああ、帰ってきたんだ」
 身体を起こしながら周りの景色をたどるレムのまなざしを一緒にたどって、俺は応えた。二人して、支え合いながら立ち上がる。俺もレムも、どこかを怪我したりしている様子はない。
 景色は、俺たちの知っている朱雀のそれだったけれど、空の色だけが違う。朝焼けとも夕暮れとも違う、どす黒い赤。それに覆われた大気も、重苦しい。
「……なんだか、とっても長い夢を見ていた気がするの」
 胸の前でぎゅっと両手を組んで、レムが唇を噛みしめた。俺も同じ気持ちだった。眠っていたはずなのに、身体は妙に疲れている。そんな気怠さが、身体を泥のように重く感じさせている。
「でも、夢じゃない」
 何が起きていたのか、どうして世界がこんなふうになっているのか。俺たちは、そのすべてを知っている。原因も、理由も、何もかもを。
「そうだね。私たち、戻ることができたんだものね」
 薄く微笑んで、レムが頷く。でも、その微笑みはどこか寂し気で不安気で。どうしてだろう、なんて首を傾げるまでもない。単純な喜びを、何かが胸の真ん中に引っかかっているようなもどかしさが邪魔をしている。それは、俺も一緒だったから。
「……ねえ、マキナ」
 俺を振り返ったレムの瞳が、張りつめたような色で俺を見上げる。
「どうして戻ってこられたのか、私、全部憶えてる。この世界に何が起こっていたのかっていうことも」
 今まで自分の意思で選択してきたと思っていた色々なことは、実は誰かの筋書き通りだったっていうことを、俺たちは知った。俺が白虎のルシになったことも、レムが朱雀のルシになったことも、そんな俺たちが殺し合いをしたってことも。そうなることを選んだのは、俺たち自身だ。だけど、そうなるような状況を作り上げたのは、何かほかの大きな力の働きだったんだってこと。
「だけど、本当の最後だけは、俺たち自分で選べたんだ」
 レムの目を真っ直ぐに見返して、俺は言った。あのまま、クリスタルの中で永遠に罪を償うつもりだった。それだってきっと、この世界を動かしている存在にとっては予定調和のひとつだったんだろう。
「レムの声が届いたから。レムが、俺を呼んでくれたから」
 だから、俺は捕らわれた場所から解き放たれたんだ。そう言って、俺はレムの肩に手を置いた。
「それに、レムだけじゃない。そうだろ?」
 俺たちを、あの暗闇から呼び出してくれたのは。そのたくさんの声を、俺ははっきりと思い出すことができる。十二人分の、仲間たちの声。
「あいつらの声が、聞こえた。だから、俺たちも応えたんだ。俺たちの力が届いたから、あいつらは審判者を……」
「マキナ」
 遮るように、レムが俺の名を呼ぶ。俺の腕を掴む手が、微かに震えていた。俺を縋るように見つめる瞳が、潤んで揺れていた。何かの予感に怯える震えは、そのまま魂のそれだった。
「私、憶えてるよ……みんなのこと。顔も名前も、全部」
 レムが腕を掴んだのは、俺を宥めるためなんだとその時気づいた。知らず知らずのうちに、俺は否定したがっていた。認めたくなくて、言葉を次々に積み重ねていった。きっと、レムの予感と同じことを。
「みんなで授業を受けたり、一緒に戦ったり……過ごしてきた時間を全部憶えてる。あの場所に乗り込んできたことも、審判者を倒したことも。だけど……」
 俺の腕を掴んだレムの手に、強く力がこもった。その先を口にすることを恐れて、レムは俯く。だけど、レムの言いたいことはわかる。俺とレムが恐れていること、もしかしたら現実に最も近いかも知れない、予感。
 この世界に降り立った異形のもの、ルルサス。その攻撃は、魂にまで達する。そうしてできた傷は、二度と塞がることはない。きっと、どんな力をもってしても。
「……それでも、あいつらは生きてる」
 悪い予感を掻き消そうとして言った言葉は、なのに空っぽな響きで風に飛ばされていってしまった。根拠のない奇跡は、そう何度も起きるわけじゃないんだと、頑なにそれから目を背ける俺たちを嘲笑うように。
「だって俺たち、あいつらのこと、こんなにはっきり憶えてる」
 両手でレムの肩を掴んで、俺は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。もし、あいつらが――考えたくもないけれど――死んでしまっているのだとしたら、俺たちはあいつらを憶えているわけがない。
「……マキナ」
「あいつらは、生きてる」
 もう一度だけ強くそう言って、俺は歩き出した。レムの手をとって。
「生きて、待ってる。俺たちが、帰ってくるのを」



 レムは、もう何も言わなかった。時々鼻をすすって涙を拭いながら、黙って俺の後を追いかけてくる。
 石造りの橋は、真っ直ぐに俺たちを導いた。おどろおどろしい空と、無表情で吹き過ぎていく風に追い立てられるように、歩いていたはずの俺たちはいつしか駆け出していた。最後に聞いた、誰かの声。耳から離れないあの言葉を、必死で打ち消しながら。
 俺は、信じたかった。あいつらが、俺たちを笑顔で迎えてくれることを。
 俺は、伝えなければならない。謝らなければならない。礼を言わなければならない。しなければならないことは、山ほどあった。それができるってことを、俺は信じて疑わなかった。
 人の気配のない街を通り過ぎて、何とか動いているエレベーターを乗り継いで、そして俺たちはたどり着く。
 見る影もなく、崩れかけた魔導院。瓦礫で埋まったエントランス。開け放たれたままの扉をくぐって、教室へ繋がる廊下へ。
 みんなのいる、あの場所へ。





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