この世に存在する、いかなるものをも遠ざける冷たい闇の中に封じ込まれた、二人の魂に刻まれた記憶。
人として与えられる結末とは大きく異なる、ルシとしての『死』。他の数多のルシがそうであったように、その記憶は輝石として残されるはずだった。
しかし、パルスに連なる、世界の理を司る者が、その摂理を捻じ曲げた。
彼女の子供たちが望んだことであるから。子供たちの願いを聞き届けるために、それが必要であったから。
冬の間、固く結ばれていたはずの氷の巌が綻び、しずくとなるように。そのしずくが雪原を削り、やがて小川となって大地を削り、大河と混じりあって海へと注ぐように。彼女に請われるがまま、少しずつ、少しずつ、彼らの記憶が流れ出す。
二人のルシの、魂に刻まれた記憶。
そしておそらく、『彼ら』から受け継いだ、『彼ら』の生きた記憶――。
あいつらは、自分たちの意思でここを目指した。
死ぬかも知れないってことがわかっていても、そんなこと大した問題じゃなかった。
あいつらは、『死』を知らなかっただけ。
『死ぬ』ということの恐怖を、理解できなかっただけ。
それを、愚かだと決めつけることはできない。
勇敢だったと讃えることも、正しいことなのかどうかわからない。
あいつらは、ただひたすら。
あの時自分たちに何ができるか、それだけを考えていたんだと思う。
みんな、必死で戦いました。
あの伝承が、真実であると信じて。
アギトなるものが、世界を救う救世主になる。
ルルサスは、アギトの誕生しない世界を消し去る。
だとしたら、自分たちがアギトになればいい、そう考えて。
でも、ルシとなった私たちは、知ってしまった。
そのどれもが、完全な真実ではなかったということを。
どれだけ立ち塞がる敵をなぎ倒しても、その道すがら強大な力を身につけたとしても。
みんなは、アギトになることはできなかった。
たとえその力が、アギトにふさわしいものだったとしても。
あなたが望んだように、彼らが強い魂を手に入れていたとしても。
何が間違っていたのか、何が足りなかったのか。
それすら、知らされることなく。
彼らは、傷つき、疲れ果て、そして倒れました。
それは、あなたと反目しあっているように見えた、あの――白虎の影にいた甲冑の奴の意向なのかも知れない。そしてそれは、あなたにとっては不本意なことだったのかも知れない。
だけど、俺たちは思った。所詮彼らの行いは――俺たち人間の想いは、あなたたちの思惑一つで簡単に無に帰されてしまうんだと。
どんなに強く願っても、どんなにそれを掴み取ろうと手を伸ばしても。
あなたたちがあらかじめ用意した結末のうちのどれかへ、世界は傾くようにできている。
悲しい。認められない。許せない。
そんな思いを抱いたのが、俺たちだけじゃなかったってことは、あなたにもわかっているだろう。
これ以上あなたたちの思惑にその身を操られることを疎んで、自ら命を絶った彼の、その足掻きが無駄に終わってしまったように、俺たちはあいつらの想いを無駄にしたくはなかった。
だから――。
だから、私たちも選んだんです。私たちの、意思で。
世界から隔てられた闇の中から、祈りました。
私たちの想いが、どうかみんなに届きますように、と。
あなたたちが何のために世界を繰り返していたのかなんて、どうでもよかった。
みんな、この世界を失いたくなかった。自分たちが生きたこの世界を、守りたかった。
ただ、みんなのそんな願いを、叶えてあげたかっただけ。
その手助けを、したかっただけ。
私たちの想いを力に――光に変えて。
自分たちのことだけで精一杯で、世界の――みんなのことなんてこれっぽっちも考えていなかった私たちができる、たった一つの償いだったから。
俺は、解ったような気がした。
無意識だったのかも知れない、だけど。
決して癒えることのない傷に、魂が脅かされるとわかっていても。
避けることの叶わない、本当の意味での『死』が待ち受けていたとしても。
それよりも、誰かの筋書き通りに自分たちが動かされるということ。
そして、抗う術も持たずにその筋書きの最後を迎えてしまうということ。
あいつらが恐れていたのは、それなんじゃないかって。
何度も繰り返されてきた同じ結末を、あいつらはそれこそ魂の深いところで憶えていたんじゃないかって。
だからこそ、あいつらは選んだ。
名前も知らない、顔も見えない誰かの決断に自分たちの行く先を委ねるよりも。
誰に命令されるでも、請われるでもなく、自分たちにとって何が最善なのかを、自分たちだけで決めたんだ。
世界の理も、それを動かしていたあなたの真意も、自分たちがその動きを作り出す歯車のひとつだったってことも、少しも気づかないまま。
アギトなんて――あなたたちが勝手に決めたただの名目にしか過ぎないものを、信じて。
この世界が壊れようとしているのを止めようと、ただそれだけを切望して。
二つの魂が語る『記憶』は、細かな光の粒子となって彼女に降り注いだ。頬に触れ、指先に絡まり、そしてそれは消えることなく集まって、いつしか人の姿をかたちづくる。
「……そして、あの子たちは審判者を倒した」
導き出された結論に、薄くため息を溶かして彼女は呟いた。一度は倒れた子供たちに注がれた、彼らの想い。子供たちは、それをそれと理解していたのだろうか。知ることは、もうできない。
「なのに、その魂をもってしても、扉は開かれなかったということなのね」
これほどの皮肉があるだろうか。リンゼに属する彼の者の裁定を覆せるのは――差し向けられた審判者を倒せるのは、強き魂を持つ者だと彼女は考えていた。だからこそ、彼女は子供たちに説いたのだ。自らの運命は自らの手で選び取れ、と。
その願いは、現実のものとなった。しかし、エトロへと至る扉は開かれることはなかった。子供たちはもちろん、あの白虎の傀儡も、そして目の前の切り捨てたはずの二つの魂も。この二人と対を為す、別の二人の魂さえも。強き魂は、連鎖するように生まれたはずだったのに。
「……そのどれもが、私の目的を果たすことはなかった」
自分だけではない。彼の者の思惑――死んでいく人間の多くの魂で扉をこじ開けること――さえも、今や水泡に帰した。もしかしたら、と彼女は思う。世界の命運は、その瞬間にもはや決していたのではないか、と。パルスとリンゼ、二柱の神。その僕である我らの意思が及ばなくなってしまったその時に、世界はあるべき姿を決していたのだ、と。
ふと、何かが自分にまとわりつく気配を感じて、彼女は伏せていた目を上げた。遠慮がちに、それでも包み込むように穏やかに、あたりに漂うのは彼らの心。
「いいのよ。そうあれと、あの子たちに望んだのは、他でもない私なのだから」
その源、今やはっきりと二人の姿を映しだし、じっとこちらを窺う彼らの魂に、彼女は苦く微笑んだ。
「母としての立場でいえば……それは、この上なく喜ばしいことだわ」
それが許されるならば、と彼女は思う。彼の推察どおり、きっと子供たちは何一つ真実を知らぬまま、ただ母としての彼女の言いつけを守っただけなのだ。そんな彼らを、誇らしく愛おしく思いこそすれ、憎み、疎んじることなどあり得ない。
「結果はどうあれ、理由としては十分よ。あの子たちの願いを、叶えてあげるには」
私は、それを確かめに来ただけ。今さら、すべてを覆そうなどとは思わない。それを危惧しているのだろう二人に、彼女はもう一度微笑んで見せた。
「……わかったわ。あなたたちは、前に進みなさい」
それが、あの子たちの望んだ未来。人が人として生きる世界。自らの意思で道を選び取り、思うがままに進む世界だ。
旧い世界の残滓の中、彼らは光そのものであった。クリスタルという軛から解き放たれ輝くその姿は、清らかに気高く、そして強く、まさに生まれ変わろうとする世界の先駆けにふさわしい。
彼女の促しに応えるように手を取り、行き過ぎていく二人。その背中越しに見える、彼らの魂の輝きに注がれた、何もかもが新しくまっさらな未来。彼女は目を細めながらも、唯一残された仄かな痛みに唇を歪める。
神の手を離れ、世界は動き出す。人の想いが受け継がれ、そして歴史が紡がれる。もう、世界は繰り返されない。魂は、二度とよみがえらない。それを誰よりも望んだはずの子供たちは、しかしこの黎明を見ることはないのだ。
何も――世界の理の真実も、母と慕ってくれたこの身の本当の姿も、思い描いた未来が現実になろうとしていることも――知らずに逝ってしまった子供たちを、彼女は哀れに思った。
最後に一つだけ。歩み始めた二人の背中を、彼女は希うように見つめた。想いを受け継ぐことができる世界。死者の記憶を、彼らの生きた証として忘れずにいられる世界。この力がまだ世界に及ぶのであれば、どうか――。
「これからの世界は、死を忘れることができない世界になる」
祈りを込めて、彼女は呟いた。消えゆく己にできる、最後の祈りだ。
「だから……あなたたちは、あの子たちを憶えていてあげて」
あの子たちの想いを。
あの子たちが、生きた証を。
どうか、忘れないでいて欲しい。
もう一度だけそう強く念じて、彼女は静かに目を閉じた。