覚醒 1 | ナノ


覚醒 1

 万魔殿の奥深く。アレシアは、一人歩を進めていた。
 生けるものの気配は皆無だ。静寂は、この広大で古めかしい宮殿の存在すら、ただの物質に成り下がらせている。
 壁や天井のそこここに走る火花のような空間のひずみが、そう感じさせているのかも知れない。アレシアは煙管の煙を身体にまとわりつかせながら、そう思った。それもそのはず、自分は今、時間の流れをせき止め押し戻してこの場所にいるのだから。
 それ以上に。漂う紫煙を軽く吹き散らして、アレシアは小さく笑う。もとよりこの場所は、本来ならばこの世界に存在し得ないもの。パルスの現身である己と対を為すリンゼの御霊が、それこそ時空の裂け目を生じさせ出現させた、いわばうたかたのようなものなのだ。
「……あなたに会うのも、これが最後、になるのかしら」
 全身を甲冑で覆うその姿を思い浮かべた途端、そのアレシアの思考に呼応するかのようにゆらりと現れた影に、アレシアは特段驚くふうでもなくそう語りかけた。実体はなく、陽炎のように覚束なく、それでも確かな存在感を孕んでそこに立つ者へ。
 強き魂を持つ人を育むことで神に受け入れられることを求めた己と、人を滅ぼすことで神へと至る扉を開こうとしたこの者。繰り返されてきた世界の終わり、同じように繰り返されてきたこの邂逅。それに終止符が打たれるのは、どんな形であれ目的が遂行される時だとばかり思っていたのに。
「私とあなた、どちらが正しかったのか……その決着をつけることは、結局かなわなかったわね」
 煙管でゆるく空を裂き、アレシアは呟いた。残念だ、と思わないわけではない。自分たちの行いは、すべて神の意志の具現であった。パルスとリンゼ、どちらの方法が女神エトロに近づけるものだったのか。それを競い合った上で勝利するのが、己の存在意義であったのだから。
 リンゼに連なる者の影が、不服を述べるように揺らぐ。その声なき声を聞き取ったアレシアは、小さく首を振った。
「……いいえ。人は、自ら考え、望み、生きることを選ぼうとしている。私たちの思惑など、もはや塵芥同然。あなたにも、それはわかっているはず」
 彼らに道を指し示してきた自らを顧みて、アレシアは苦く笑った。もしかしたら、神の存在そのものをも、彼らは必要としていないのかも知れない。そうなろうとしているこの世界の在り方が、善きことなのか悪しき結末なのか。しかしそれを決めるのもまた、もはや自分たちに許されるところのものではないのだ。
「人は、神の手から離れようとしているの。私たちにできることといえば、ただ一つ」
 アレシアは言って、再び歩き出す。それが、神の御心にそぐわないということは、十分に理解している。それでも、それが子供たちの願いであったなら。彼らの、望んだ結末であるならば。
「世界を、輪廻の螺旋から解き放つことよ」
 すれ違いざま――というよりもその身体を通り抜け――アレシアは決然と影に言い放った。追いかけてきた声に、アレシアは振り返らずに応えた。
「……私も、選んだだけのこと。私がすべきことを。私だから、できることをね」
 アレシアの選んだ結末を、受け入れたかどうかはさだかではない。が、影の存在は、霧が晴れるように消え去ろうとしている。
 それでも、頂く神が異なり、歩む道筋も分かたれたとはいえ、見据える先は寸分も狂わず重なり合っていた同志の、それ以上言葉を交わすことのなかった無言のこの決別こそが答えなのだと、アレシアは思う。
「……私たちの時間は、長すぎた。人の心というものに、あまりにも触れすぎた。その結果が、今なのかも知れないわ」
 一足先に世界から消えた彼の者の残滓に、アレシアは語りかけた。それは、悠久の時を競い合った存在への労いであり、慰めであり、餞であった。応じるように、何かがアレシアの背中を押す。
 それに微笑んで、アレシアは再び歩き出した。



 生者の存在は否定できても、その者たちが残した生の記憶は染み込むようにあたりに散らばっていた。耳を澄ませば、いくつもの足音が聞こえる。目を凝らせば、激しい戦いの爪痕をたどることができる。それらに導かれるようにして、アレシアは進む。
 時間と空間のひずみから滲み出る幻影は、子供たちの記憶そのものなのだろう。いくつもの見知った顔が、アレシアのまわりに儚げに浮かんでは消える。傷つき、疲弊し、それでも前へ前へと進む彼らを追いかけ、または追い越されながら、アレシアは歩いて――そして、辿りついた。
 そこは、万魔殿でも最奥にほど近いところ。今の世界の姿をそのまま写しとるかのように、床はひび割れ、壁や天井は崩れ落ちている。大きな力ともう一つの大きな力とが凄まじくぶつかり合ったのであろう痕跡。しかし、流されたのは多くの血ではない。そしてそれは、子供たちのものではない。
 足音を響かせ、アレシアはそこに立った。仰ぎ見るのは、クリスタルと化した二人のルシ。彼らもまた、アレシアの手によって生み出された子供たちでありながら、同時に不必要だと切り捨てられた歯車だった。誰よりも、子供たちの側にいた二人。ティスの言葉が、アレシアの耳の奥でよみがえる。
 この二人の司る座は、愛と恐れだ。人として最も重要なものであるからこそ、アレシアはそれらを無価値であると判断した。思えば自らのその見通しが、神へと至る扉を開くという目的を果たすことへの、何よりの障害であったのかも知れない、と、アレシアは目を伏せる。
 愛は恐れを産み、恐れのために愛は育つ。幾億もの繰り返しという淘汰をもってしても、その真理は完全には打ち砕けなかったということだ。人を道具として扱った己の意思など、与り知らぬところで。
 少なからぬ悔しさと憤りと、それを覆い尽くしてなお余りある諦観に諭されて、アレシアは寂しく笑う。思い通りにならなかった結末は、しかし己にとってだけの結果なのだった、所詮は。
「……そうでしょう?」
 アレシアは、見上げる視線のその先にある彼らに問うた。子供たちの、願いの行く末。それを担う、別の子供たちへ。応える声は、聞こえない。けれども、その魂は確かにここに息づいている。
「私の声が聞こえるわね?」
 仄かに薄赤い二つの魂に、アレシアは重ねて訊ねた。あなたたちはまだ、その眠りにつくことを許されたわけではない。そう促すように、腕を差し伸べる。
「教えて頂戴、あなたたちのことを。私の、子供たちのことを……」
 求めに応じるように、クリスタルから滲み出る光が大きなうねりとなって人の姿を形づくる。その魂に、多くの想いを、記憶を宿して。迸る光を全身で受け止め、アレシアは目を閉じる。
 彼らが、何を語るのか。
 そのすべてを、ひとかけらも逃すことなく聞き届けるために。





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