雪が轟々と唸る。 寒さは忘れた。 静かな時間は消えたようだ。 僕は負けた。 僕を負かしたその少年は、ヒビキと名乗っていた、確か。 悔しさは無かった。 ああ、やっと、楽しいバトルができた、と。そう思った。 だって、皆弱くって。ヒビキだけが僕にやっと勝ってくれた。 僕はずっと待っていた。雪の美しさは、いつの間にか麻痺して分からなくなった。 長かった。三年も経ってしまった。 僕はただ、強い奴と戦いたかっただけだったのに。 僕はとある山にいる。雪が溶けることのない山に。 ヒビキに負けてからしばらくして、また一人トレーナーがやってきた。 真っ赤な髪。ぎらぎらと光るその目に宿すは、 (……憎悪、か?) 奇妙なことに、僕は赤髪の彼を知っている気がした。けれど、誰なのかはっきりと思い出すことができない。 脳が疼く。 僕の苦悩も露知らず、彼は僕の目の前まで来て、こう言った。 「お前が、レッドか?」 これには驚いた。 だって、大抵のトレーナーは僕に敬語を使ってたから。ヒビキも然り。 僕は答えない。いつものこと。 ただ、ピカチュウを遊ばせることにした。 勢いよく跳ねる黄色。 赤髪の少年は、咄嗟に腰に括り付けていたモンスターボールに手を伸ばし、ボールを放った。 その投げ方が、異様に誰かに似ていると、そう思った。 でもそんなこと今はどうでもいい。 さあ、ピカチュウ。遊んでおいで。 あっさりと勝ってしまった。まあ、いつものこと。 ただ、ヒビキの様に楽しめなかった。ヒビキの方が強かった。あの楽しさはまるで麻薬のよう。 少年は無言でオーダイルをボールに戻した。 なんと大柄な。でも、まだまだ。図体だけじゃあだめだよ。 ただ、その戻し方が。ちょっとした腕の動きが。 ものすごく『誰か』に似ていた。 これは。敬語を僕に使わない。誰かに似た動き。 この状況はおそらく、彼は僕を知っていて、しかも目には憎悪が浮かんで、 (……あぁ、) 憎き悪は滅ぼした。 滅ぼされる側のことも考えずに。 でも、僕は知っている。 最後のジム、サカキの真後ろにいた。サカキは気付いていなかった。 僕とサカキのバトルを、瞬きもせずに、食らうように見ていた小さな影。 真っ赤な、髪。 初めて、この山に来てから初めて、僕は人に対して声を発してしまった。 「君は、サカキの、」 その鋭い目付き。 父親にそっくりの目が、丸くなる。 柄にもなく、謝る積もりなぞこれっぽっちも無かったのに、僕はごめんね、と呟いていた。 だって、あの目。 僕を睨み付けていた、あの目。 きっと、僕がサカキを倒したせいで、彼に何かあったのだろう。 悲しきかな、あれから三年経ったというのに、目の前のこの少年は、未だ憎悪の渦中にいるらしい。 そういえば、どうやって僕のことを知ったのだろう。 だって、この子は僕に、『お前が、レッドか?』って言った。 それは、僕がここにいることを知っていたという聞き方だ。 そうだ、久し振りに人と話すのも、悪くないかもしれない。 「君は、誰に僕のことを聞いたの?」 雪が轟々と唸る。 僕の声は、届いているだろうか。 「…ヒビキに」 ヒビキの知り合いか。いや、友達? しかしこの子とヒビキは余りにも違う、と思った。 どうやって友達になったのか。 いや、嫌っているかもしれない。 ヒビキは、ロケット団を、サカキを嫌っているかも。 そして、この子も嫌っているかも。 でも、ヒビキが人を嫌うって、あんまりないかな。 いや、それとももしかして。 「ヒビキは、君のお父さんを、知っている?」 少年の肩がびくりと揺れた。 そして、顔を歪ませて俯いた。 指先を不安そうにざり、と雪に食い込ませる。 彼は微かに首を横に振った。 ああ、この子は。 最初確かに僕を憎んでいた。目には恨みを乗せていた。 その、歪に光っていた眼が、今は不安げにゆらゆらと揺れている。 もしかして。 「言うのが、怖い?」 瞬間、彼の目は大きく見開かれた。 じわり、と水が彼の目からゆっくり出てきて、ぽろりと溢れた。 僕は慌てた。 まさか泣かれるとは思わなかった。 人には、触れて欲しくないことだってある。 僕は、それを良く知っていて、だからこの山に来たのに。 僕はこの子を傷つけてしまった。嗚呼。 しばらく僕らは黙っていた。 彼は静かに泣いていた。 涙は地面に落ちる前に凍り付く。 僕は何もできなかった。 誰かを慰める、それは凄く難しいことだ。 一言でも間違えたら、相手は更に傷つくのだから。 だから僕は慰めなかった。また傷つけるのが嫌だったから。 ただ、もう蹲って顔を見せないように、必死に肩を震わせて泣いている彼の隣りに座って、背中を撫ぜることにした。 ドクドクと。人だ。僕が人に触れるなんて、いつ以来だろうか。 しばらくして、嗚咽が段々と収まり、彼は言った。 「…意外だな」 「どうして?」 「アンタが…喋ったり、慰めたりするのが」 僕はその言葉を聞いて、少し悲しくなった。 やはりもう、僕を普通のトレーナーとして扱ってくれる人などいないのか。 その言葉に、僕は予想以上に傷ついた。 だから、仕返し。 「それで?」 「え…?」 「それで君は、何を怖がっているの?」 ゆらりと彼の目が揺れる。 「ヒビキに、嫌われること?」 きゅっと口が真一文字になり、頬が赤く染まり、瞳孔が開いた。 さて、そろそろ僕は消えようか。 まったく、本当に人間は面倒くさい。 これ以上お互いを傷つけないために、僕は雪の中へと飛び込んだ。向こうからは、もうきっと僕の姿は見えていないだろう。 あの、あかがねの哀しい目の彼からは。 back |