目の前で、輪を作った縄が揺れている。その向こうに、彼が立っていた。


……柊。


名前を呼ばれたけれど、顔はかすんで見えない。でも、どんな表情をしているかは予想がつく。


柊、泣くな。


でも。だって、だってあなたは、私のせいで――


お前のせいじゃない。


同じことだ。私がもっと、しっかりしていれば。うまくやれれば。あんなことにはならなかったかもしれないのに。私のせいだ。私が―――


もういいんだ。


彼は優しい声音で言って、縄に手をかけた。…だめ。だめだ、


ありがとよ。


首に輪がかかる。







「―――だめっ…!」


自分の小さな叫び声で飛び起きた。机で資料を読んでいたら、いつの間にか眠っていたらしい。変な姿勢で寝たからだろうか。…すごく、嫌な夢を見た。じっとりと汗をかいていて、指先がとても冷たい。


「………」


もう見なくていい夢なのに。


「…迅さん、もう寝ちゃったかな」


時計を見ると午前0時を回ったところ。明日はいよいよ出発だし、朝も早いからそろそろ寝ないといけないんだけど。噂をすれば何とやら、ちょうどよく扉がノックされた。


「…柊。入っていいか?」
「……どうぞ」


咄嗟だったので、かすれて弱々しい声が出た。扉を開けた彼が不思議そうにこっちを見る。


「…大丈夫か?」
「…うん、ごめんね。…ちょっと、怖い夢見ちゃってさ」


なんだか幼児みたいだけど、彼はいつものようにからかうことはせず、ベッドに腰かけた。そうして、どんな夢だったか尋ねてきた。その声は優しくて、気を遣ってくれているのが分かる。柊は基本的に夢を見ない。そんな彼女が悪夢でぐったりしているのだから、からかう気にはならなかったのだろう。彼には言っていないが、柊が夢を見る時は決まって“あの日”のことが出てくる。


「あんまり覚えてないんだよねぇ。…でも、すごく怖かった」


本当は、はっきり覚えている。でも、それはもう終わったことだ。むやみに心配をかけるようなことはしたくない。


「…そうか」


彼はそれ以上聞かなかった。一瞬、お互い無言になる。それから柊は立ち上がって机を離れ、彼の隣に座った。


「いよいよ明日だねぇ」


のんびりした調子で彼女が言う。


「飛行機なんて久しぶりだなぁ。アメリカから帰ってきた時以来だから…8年ぶりくらい?」
「もうそんなに経つんだな」
「早いよね。この間、友達に『あんたもアラサーだね』って言われてびっくりしたよ」


まだ3年あるのにねぇ。と笑い、ベッドの上で座り直した。


「さて。明日から3ヶ月いないわけですが、どうですか」
「どうってなんだよ」
「寂しい?」


声の調子がからかっている。対抗するために、至極真面目な風を装ってに返すことにした。


「ああ、寂しいな。寂し過ぎて死んじまいそうだ」
「…ウサギって、別に寂しくても死なないらしいよ」
「知ってらァ」
「さいですか」


かわいくないなぁ、と笑う。それきり会話が途切れ、また無言になる。苦になる沈黙ではない…んだけど。


「…あのさ」
「ん?」
「この期に及んで…って感じだけど、やっぱり行きたくないよ」


準備も終わってるのにね。と、部屋のすみに寄せた荷物を見やる。積まれたそれの多さが、彼女のいない期間の長さを物語っている。彼はただ頷いて先を促した。


「…ねぇ。笑わないで聞いてくれる?」
「約束はできねェな」
「わーイジワルー」
「で?笑いこらえて何聞けばいいんだ」
「…なんでこんなヒネちゃったかなぁ。前は、もっと分かりやすく優しかったのに」


少しだけ芝居がかった調子でため息をつく。その割に、彼女は服の袖を掴んできた。


「なんで行きたくないってさ。…嫌なんですよ」
「だから何が」
「あなたと離れるの」


思わず隣をのぞきこむ。…が、一瞬早く柊は彼の腕に抱きついて顔を隠した。


「…もういい大人なんだから、そんなこと言ってちゃダメだって思うんだけどね」


くぐもった声で彼女が言った。


「でも……やっと、そばにいられるように、なったのに」


一度、離れ離れになった。そして7年越しで再び触れられる距離に戻ることができた。…なのに。


「御剣さんも、ちょっとは考えて欲しかったなぁ。まぁ、評価してもらえるのは嬉しいことなんだけど」
「……」
「…もしかして笑ってる?」
「…大笑いだよ」
「なにそれ、」


ひどい。顔を上げて抗議しようとした言葉は、途中で切れた。


「……ひどい」


中断された抗議をしなおすと、近すぎてぼやけた視界で彼が笑う。


「どんな理由かと思えば、」
「どうせ大人げないですよー」
「可愛いやつだなァ」


ぎゅう、と抱きしめられた。ついでにぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。


「ちょ、髪ぐちゃぐちゃ、」


慌てて彼の胸を押して逃れる。と、ぱちっ、と目が合った。寸の間見つめ合い、彼の指先が頬を滑る。


「…明日、何時起きだ?」
「もう今日だけどね。…4時。だけど、いいよ」


しばらく会えないんだし。そう言って、彼の頬を両手で包んだ。どちらともなく再び顔が近づいた。ふわふわと柔らかい感触に目を閉じると、軽く肩を押されて背中がシーツに沈む。見上げた先で、照明のスイッチが切られた。







「…ん、」


ゆるゆると意識が浮上する。ゆっくり目を開けると、薄暗い中に彼の横顔が見えた。まだ寝ているみたい。彼の向こうのサイドテーブルに置かれた時計に、手を伸ばす。柊は目が悪いので、テーブルに置いたままでは時間が読み取れないのだ。そういえば、めざましが鳴った覚えがないなと思いつつ針の位置を確認する。


「……あは」


思わずもらした笑いが耳に届いたのか、下からうめくような声がした。


「あ。おはよう」


うっすら目を開けた彼の首筋に顔を埋めた。まだ完全に覚醒していないながらも、柊の髪を撫でてくれる。


「…起きれたのか」
「うん。あのね、迅さん」
「……?」


すり、と頬を寄せて彼女は言った。


「寝坊しちゃったよ」
「……あ?」


思わず間抜けな声が出た。彼女はいつもの調子でじゃれついてくる。


「…空港に何時集合だ」
「7時に御剣さんと待ち合わせ。わざわざ見送りしてくれるんだってさ」


律儀なこって。柊は笑っているが、夕神は正直それどころではない。


「で、今の時間は」
「6時。空港までは、車で30分はかかるね」


なんとも呑気な口調。つられたのか、夕神も「そうか」と優しく言った。


「あと30分で家出なきゃならねェんだな」
「そうだねぇ」
「そりゃ大寝坊だなァ」
「ホントにねぇ」


あははは、と二人して笑う。が、次の瞬間思い切り額を弾かれた。べちん、と小気味良い音がする。渾身のデコピンを食らった柊が、仰け反った。


「あう」
「笑ってる場合か!」


珍しく声を荒げて、彼はがばっと起き上がった。その辺に投げ出されていた服を彼女の方に放り投げる。


「何悠長なことやってんだ、間に合わねェだろォが!」
「…時間進みすぎててびっくりしてさ。落ち着こうとしてたんだよ」
「準備しながら落ち着け!」


礼儀礼節がしっかりしている彼なので、時間に遅れるなど許せない。事情があるなら仕方ないが、今回はただの寝坊だ。あっという間に外へ出られる格好に着替えて、彼女を振り返る。一番急がねばならない人は、もそもそと服を着ていた。


「荷物積んどくから、その間に身支度しろよ」
「あーい」


間延びした返事をする彼女の頬を引っ張ってやりたくなった。が、そんな時間も惜しいので車のキーを取りに向かった。





荷物を積み終えて家の中に戻ると、支度を全て終えた柊がのんびりソファに座っていた。


「…もう終わったのか?」
「迅さんが早くって言うから」


言われなくても急げよ、とツッコミたいところだ。全く、さっきはのそのそと部屋着を着ている状態だったのに、この短時間でどうやって支度を終えられたのだろう。


「さ、行こっか。今出ればちょうどいい感じだし」


時計を見ると6時20分。普通に運転していけば、待ち合わせの10分前に到着できる。余裕な感じに脇をすり抜ける彼女に、ちょっと力が抜ける思いがした。


「……あ、そうだった。迅さん迅さん、」
「…なん、」


最後まで言うのを待たず、いきなり襟元が引っ張られる。為す術なく傾いだ彼の唇に、彼女は自分のそれで軽く触れた。


「空港だと人目が多すぎるからねぇ」


さすがに恥ずかしいかな、とふざけた調子で言った。それから、ふと目を細める。


「行ってきます」
「…ああ」
「電話するからね。家にいる時くらい、マナーモード切っといてよ?」
「忘れなかったらな」
「そんなこと言ってちゃんと切るくせに」


まぁ、その通りだけど。認めてしまうのはシャクなので、適当にはぐらかしておいた。


「わ、そろそろ出ないとホントにやばい」


腕時計を確認して、彼女は彼の手を引いてドアノブを回した。


「あんまり引っ張んな」


文句を言いつつ、控えめに彼女の手を握り返す。足を滑らせた時のために用心したのか、彼も彼女と同じ心持ちだったのか。多分、両方だった。






―――――――――――
次回、いざアメリカ。そして、ムチで物を言うあの人登場。
※8年後の捏造注意。










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