「昨日、大学時代にお世話になった教授に会ったんだ」


数日前、彼女は電話でそう言った。珍しく途方に暮れたような声だったから何事かと思っていた。その後、彼女が恩師からアメリカで働かないか誘われたという、例の話が続いた。彼女は諸事適当に見えるが間違いなく優秀な検事だし、声をかけられること自体は喜ばしいことだ。けれど、彼は素直に喜べなかった。理由はいくつかある。ひとつめ、彼女が研修を楽しんでいること。あれだけ行きたくないと言っていたのに。ふたつめ、恩師からの誘いに対し彼女が迷っているらしいこと。…彼から離れたくないと、言っていたのに。


「…ちょっと……何、言ってるの?」


ほとんど無意識に唇からこぼれた彼の言葉に、彼女は動揺した声を出した。法廷では並大抵のことでは平静さを崩さない柊の、そんな声を聞いたのは実に7年ぶりだった。


「迅さん、どうしたの?」


彼女は探るような声音で聞いてきた。彼が引き留めてくれると思っていたからだろう。その読みは当たっているが、素直にそんなことを言う気には…なれなかった。平たく言えば、彼は嫉妬に似た気持ちを抱えていたのだった。


「…そう、分かった」


彼女はきっと、異国でもやっていける。そう言った彼に、彼女の返事はとても静かだった。おやすみ。その挨拶が耳に残って離れない。
上司に聞いたのだが、この7年間、彼女は彼の無罪を証明するために力を尽くしてきたという話であった。7年前のあの日、己は彼女を傷つけた。ただ真っ直ぐに、彼の無実を信じてくれたというのに。本当のことも言わないで、いわば彼女を裏切ったも同然だ。―――それなのに。嬉しくないはずがない。けれど、同時に何とも言えない気持ちにもなった。彼女にはもっと、たくさんの道があったのではないか。7年前の真相を明らかにするという道ではなく、もっと、彼女自身のためになる道が。己の存在が、彼女の可能性を潰してしまってきたのではないか。そんなことを、彼は考えてきた。柄にもないこと。その通りだ。しかし、彼女の枷にはなりたくない。彼女には、本当に幸せになって欲しいから。
だから、恩師の誘いを受けるよう勧めた。それが彼女の新しい道になるのならば。…けれど、彼の心は、研修を楽しみ、アメリカで働くことを悩む彼女に苛立っている。どこまで自分勝手なのかと自嘲した。


「―――あなたは足枷なのよ」


アメリカで出来たという彼女の友人から、電話でそう言われた時は、やはりそうだったのかと妙に納得した。―――しかし。


「結婚しよう、迅さん」


唐突過ぎて、咄嗟に彼女のテンションにツッコむだけで精一杯だった。どうして急に、その話なんだ。頭が追い付かない彼に対し、彼女は言った。


「私は、あなたがいないとダメなんだ」


その言葉に思考が止まる。そして再び動き出す前に、通話は一方的に切られた。


「………」


ツーツー、という電子音。夕神は、耳から離した受話器を見つめて呆然としていた。


「…その、アレだ」


沈黙の後、目の前の上司が口を開いた。その顔には、苦笑。


「何はともあれ…おめでとう」


何と返していいか皆目分からない、夕神であった。





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