「……どうしたもんかな」


柊は携帯片手にため息をついた。海外研修も早2ヶ月が経過し、残すところあと1ヶ月となった。今では柊は学生たちの間で人気講師だし、冥はというと相変わらず元気にムチを振るっている。最初は行きたくないと思っていたけど、参加してみると非常に面白く、時が経つのがあっという間だった。そんな充実した毎日の中でこの日。彼女は大いに悩んでいた。時間稼ぎに時計を見やると、午前11時。今から電話をかけようと思っている相手のところは、午後11時頃だ。いくら多忙な身の上とはいえ、さすがに帰ってきているだろう。


「…寝ててくれないかなぁ」


いつになくそんなことを呟きつつ、画面の『通話』に指を当てる。すぐに画面が切り替わり、相手を呼び出し始めた。


『なんだ?』


数回のコールの後、短い言葉が聞こえる。


「…まだ起きてたんだね」
『寝てた方が良かったかい』
「うん」
『…そこは嘘でも否定しろよ』


もっともな言い分である。しかし柊は、「だってさ」と続ける。


「すごく言いづらいことなんだよ」
「…何かあったのか」


真面目に話を聞く気になったのか、彼は神妙な調子で聞き返してきた。息をすっと吸い、柊は昨日の出来事を話すことにした。


「…昨日ね、大学時代にお世話になった教授に会ったんだ」


柊が検事を志すきっかけになった人物で、彼女の恩師である。現在は柊の母校で教鞭を取る傍ら、その地域の検事局長まで勤めているというイレギュラーな人だった。教え子が来ていると聞いた教授は、昨日わざわざ研修が行われている大学まで訪ねてきてくれたのだ。数年ぶりの再会だったので、その後2人で食事に行ったのだが、そこで恩師から言われたのが―――


「こっちに来る気はないか」


こっち、とは言わずもがなアメリカのことで、教授が局長を勤める検事局で働かないか、というものである。他国での経験がある検事が入ってくれれば、他の職員にもいい刺激になる。教授はそう考えているようだった。


「……それで、なんて返事したんだ?」
「丁重にお断りしましたよ」


柊自身には、もう海外で暮らす気はないのだ。というか、彼と離れるつもりがないという方が正しい。しかし教授は、すぐにでなくともいいから考えてみて欲しいと伝えて帰っていった。……そう、彼女は話した。


「……」


電話の向こうで、彼は少し黙った。やっぱり、アメリカで働くなんてダメだよね。彼が否定してくれると感じ、柊は少し気が楽になった心持ちがした。だが、この時の彼女は珍しく沈黙の意味を測り誤ってしまった。次の彼の言葉で、彼女は目を見開くことになる。


「…いいんじゃねェか」
「……え?」
「せっかく期待されてんだ、答えてやるのが礼儀ってもんだろ?」
「…ちょっと……なに、言ってるの?」


柊は困惑して言葉を詰まらせた。ついでに、首に片手を当てる。これは恋人に有罪判決が下り、将来絞首刑に処せられることが決まった時からついてまわっている、彼女の癖だった。主に動揺している時に現れるが、焦りの度合いによっては“当てる”というより“絞める”という方が正しいほど力を入れることもあった。そんな危険な癖が出ているとは露ほども気付かないほど、柊は電話の向こうの声に意識を取られていた。


「島国に閉じこもってるよりよっぽどいいと思うぜ」
「……迅さん、どうしたの?」
「どうもしねェよ」
「嘘。…心音ちゃんじゃないけど、声にノイズ混じってる」


心音ほど敏感には感じ取れないけれど、これまで様々な証人を相手取ってきた彼女にはなんとなくわかる。彼の声には、薄らと違和感があるのだ。すると、彼は乾いた笑い声を立てた。


「お前も人のこと言えねェよ」


…やっぱり、気付かれていたのだろうか。柊が一瞬黙ったので、彼はすかさず続けた。


「本当は、迷ってんだろ?」


その通りだった。一応は断ったものの、恩師からの誘いをむげにするのは気が引ける。恩師には申し訳ないが、彼と恩師を天秤にかければ彼の方が勝る。しかし、海外の司法も面白いと思えてきてしまっていた。自分の中だけでは答えを出すことができなかった。――彼なら。彼なら、引き止めてくれるだろう。そう、思った。


「俺なら帰ってこいって言ってくれると思ったのか。残念だったなァ」
「……」
「むしろそっちにいた方が合ってんじゃねェか?」


毎日ずいぶんと楽しそうだしな。その言葉に微量のトゲを感じた。柊はゆっくりと口を開く。


「……それ、本気?」
「…ああ」
「私が遠くに行ってもいいの?」


瞬きするのに必要なくらいの間があいた。


「お前はそれでもやっていけるよ」


柊はちょっと目を閉じた。浅く呼吸をして―――ふ、と微笑む。


「…そう。わかった」


遅くにごめんね、おやすみなさい。静かな声でそう言うと、ふつりと通話を切った。


「……」


暗い画面を見つめて、長く息を吐いた。ふとテーブルの上の鏡を見やると、首に赤く手の痕がついているのに気付く。意外と似合ってるじゃない、と思った。





―――――――――
何だか急に雰囲気が険悪。













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