「比良城検事!」 呼び止められてそちらを見ると、金髪の若い女性がこっちにやってきた。彼女は、柊と同じく今回の研修に参加している女性検事だ。半年前に資格を取ったばかりだそうで、研修が始まって約2週間、毎日とても熱心な姿勢を見せている。私なんてゆるーくやっているのに、エライなぁと純粋に感心した。彼女を見習わなければならないのだが、8年間現場で仕事をしてきて、もう自分のスタイルというものができてしまっている。それを今さら変えることは非常に難しい。でも、彼女をはじめとした参加者たちに学ぶべきことは多い、と思えるくらいの心の広さは確保している柊だった。 「どうかしました?」 息を切らせて走ってきた彼女にのんびり声をかけると、彼女はがばりと顔を上げた。 「比良城検事、あの、今日はありがとうございました!」 「柊でいいですよ。…てか、私何かしましたっけ?」 「日本の法曹界の現状について、講義して下さったじゃありませんか!」 講義。そういう表現をされると大層なことに思えるが、実際は日本からの参加者が柊だけだったため、日本における最新の司法制度と法曹界の現状を簡単に発表して欲しいと言われたくらいだ。昨日の帰りに、主催者である法学部教授に頼まれた。 「とても分かりやすくて、すんなり頭に入ってきました!」 「そんなたいそうなもんじゃないですよ。どうやってまとめたらいいか、日本にいる上司に聞いちゃいましたから」 「それでも、すごいですよ!それに、講義の進め方も非常に参考になりました。今度、法廷で使ってみます」 そこで、女性検事はふっとうつむいた。 「…それから、その…演習の時、助けて頂いて…」 この日のプログラムは、まず最初に柊が日本の司法制度の現状を話した。次の時間では他の参加者が実際に担当した事件を元に模擬シナリオを作り、被告人は有罪か無罪かを皆で検討する演習を行った。これがなかなか捻くれた……複雑な事件で、学生たちは唸りながら自分たちの意見を言い合っていた。柊はというと、以前似たような事件を扱ったことがあったせいかさっさと答えに辿りついてしまっていたので、周囲を見物していたのだが。 この女性検事は、近くに座っていた学生に質問され、思うように答えられずしどろもどろになってしまっていたのだ。しかも、その学生というのも、成績が優秀なんだか知らないが教えを請う側とは思えない態度をしていたのだった。相手が新人だと知ると、「素人同然」だとか言ってずけずけと言葉を浴びせかけた。見かねた柊が、その学生の知識の穴をつついてやると(あくまでやんわりと)、学生は己の間違いに気付いて面白いくらい真っ赤になってそれきり黙ってしまった。恥ずかしいという気持ちがあるだけまだ伸び代がある、と柊は微笑ましく思っていた。…女性検事がいうのは、その時のことなのだろう。 「そんな大げさな。私はただ、あの学生さんの鼻をぽっきりやってみたくなっただけですよ」 「でも…。そもそも、わたしが知識不足だったのがいけないんですけど…とにかく、ありがとうございました」 深々と頭を下げる彼女に、何だかこっちが恐縮してしまう。もらえるものをもらって損はないので、ありがたくお礼の言葉を頂戴しておくことにした。また明日もよろしくお願いします、と元気に言って、新米検事は去って行った。 「…なんか、初々しいなぁ」 私にもあんな時代があったんだろうか。自分では分からないので、今度彼に聞いてみようと思った。とりあえず、今より言動に勢いがあったとは思う。今ではそんなに勢いをつけなくても必要な効果を出す方法を知ってしまったので、表向きのんびりやっている。本人はそのつもりだ。もっとも、周囲の人々(主に刑事や法廷係官)によると、検事席の柊は大抵の検事が周りから言われるようにかなりコワイらしいのだが。それはさておき、後輩の後ろ姿を眩しそうに見送っていると、背後でいきなり声がした。 「…お疲れ様です、比良城検事」 なんとなく聞き覚えのある声だったので振り返ると、まさに話題に上がっていた学生だった。柊にぽきんとやられた鼻っ柱は、つんと上を向いている。学生は歪んだ笑みを浮かべて立っていた。柊は笑顔で挨拶を返した。 「お疲れ様です。まだ残ってたんですね、熱心で素晴らしい」 「あなたには及びませんよ」 おや、先ほどとは違って殊勝な言い様じゃないか。ちょっとは鼻が低くなったのかなと思いかけた柊を前に、学生は続ける。 「先程は失礼しました。わたしも、あなたの冷静さ、判断力を見習うべきだと思いましたよ」 「いえいえ、私はそんな大層なもんじゃ…」 「恋人にためらいなく死刑判決を下せるくらいの…ね」 一瞬、息が止まった。それでも、表情を変えはしない。 「…どこで聞いたのかな?」 「風の噂です。…罪を犯したなら、たとえ恋人でも容赦しない。まさに検事の鑑ですよねぇ」 学生は嫌な感じに笑う。どこで耳にしたのかは分からないが、この学生はプライドをずたずたにされた腹いせに、柊の弱みといえる情報をつきつけて反応を楽しんでいるんだろう。柊は、顔だけ柔らかな微笑みを浮かべた。何か―――当たり障りのないことを言って、やり過ごそう。こういう言われ様には慣れたはずなのに、手足の先が冷たくなっていく。思い出してしまうからだろうか。すぐに返事をしない柊に、学生は勝ち誇ったような顔で口を開きかけた。―――と、その時。 「ぎゃあっ!?」 鋭い悲鳴が廊下に響く。はっとして見やると、学生はその場にうずくまって震えていた。その向こうで、女王陛下がムチを構えている。 「…冥ちゃん」 冥はちらりと柊に視線をくれて、すぐに足元の学生に目を戻した。その眼差しは、氷点下である。 「…貴様。名と担当教員を答えなさい」 がたがたと震えながら、学生は自分と担任の名前を口にした。冥は「そう」とだけ答える。声もまた極寒だった。 「貴様の態度については、担当教員とよくよく話し合う必要がある。覚悟しておきなさい」 「なっ、何故わたしが…!?」 「貴様が今口を利いていたのは、曲がりなりにも現職検事。それを忘れないことね。さもないと―――」 ギリッといつもより余計物騒に、ムチを構える。学生は、ひぃっと短く息を吸って逃げるように去っていった。その後ろ姿を見送りながら、柊が苦笑する。 「私、もうちょっと威厳つけた方がいいかなぁ」 冥のムチのように、びしりと黙らせられるような。ふざけた調子で口に出してみると、冥はあっさり「無理よ」と言った。 「冥ちゃんてばキビシイなぁ、もう」 はは、と笑ってから、ふと柊は軽薄な笑いをおさめた。 「…冥ちゃん」 「…なに」 「ありがとね」 「おだまり」 「え、今のいいシーンじゃなかったの?」 「うるさいわね。それに、今日は全くもって期待外れよ。比良城柊」 やや無理やりな感じで話題を変え、冥は腕を組んだ。不機嫌な様子を隠しもしない。 「がっかりだわ」 「だから柊でいいってば。がっかりって、いきなりどしたの?」 「今日の発表。失敗してブザマな姿をさらしてくれると思っていたのに」 指導員どのは、およそ指導とは思えないような鋭利な言葉を投げつけてきた。それを柊は笑ってあっさりとかわす。 「残念でした。いやぁ、いい上司に恵まれてよかったよ」 「御剣怜侍などに聞くなんて。…分からないことがあったなら、真っ先に指導員である私に確認すべきだったわ」 声が苛々している。柊が失敗する様を見たかったというよりは、御剣に電話で聞いたことの方に怒っているらしい。確かに、まずは冥に相談するべきだったかもしれない。 「ごめんね、冥ちゃん。ケーキおごるから許して?」 「この私がその程度でごまかされると―――」 「駅前のケーキ屋さん、美味しいって評判なんだって。学生さんが教えてくれたよ」 「…駅前?」 「うん。最近オープンしたばっかりなんだって。モンブランが美味しいらしいよ。…そういえば冥ちゃん、モンブラン好きだったよね?」 「………」 ねぇ、この前言ってたよね?ねぇ。わざとらしく視線を外して黙る冥の顔を、しつこく覗き込む。ムチの一撃が来るかと思いきや、手で押しのけるだけだった。さっきは学生相手に思い切りお見舞いしていたが、さすがに講師であるところの柊を学内で叩くのはまずいと思ったんだろうか。冥はそんなに控えめな子だったかな、とこの2週間を振り返る。アメリカに着いた日に乗せてもらった車の運転手をはじめ、お手伝いさんや同僚など、他者への態度は尊大だ。気に入らないとすぐムチで八つ当たりするし、人をフルネームで呼ぶ。どんなにアクロバティックな角度から見ても、控えめなんて言葉とは対極だ。 「ま、そんなところも面白いんだけどね」 「何か言った?」 「冥ちゃんって意外といい子だよねって話です」 すると何を当たり前のことを、と冥がいつもの返しをしてきた。彼女の家に居候して2週間、何度となく交わされたやり取りだった。なんだかんだで打ち解けてはくれたかな?と思いたい柊である。 「たまにはさ、歩いていこうよ。そんなに遠くないし」 そう提案すると、冥は不満そうな顔をしたものの嫌とは言わなかった。 「何食べようかなー。モンブランは冥ちゃんに一口もらうからいいとして…」 「待ちなさい。ひと欠片たりとも渡さないわよ」 「えー、いいじゃん」 「もしも私の分に手を出そうというなら…このムチが物を言うわ」 「クチで物言ってよー」 そんな、中身のない話をしながら(ほぼ柊が一方的に)大学を出た。……今日は、悪い夢を見そうな予感がした。件のケーキの印象が強ければ、上書きされるかもしれない。 「美味しいといいね、ケーキ」 身長の関係で一歩前を歩く柊が気楽に言う。 「………」 その背中を、冥が何か言いたげな目をして見つめていた。 ―――――――― 最近冥ちゃんとばっかり絡ませてる気がします。 |