朝。いつも通りの時間に起床し、身支度を整えて店に出て行く。開店準備をざっと行い、桃太郎はふと時計を見た。 「…白澤様、まだ寝てんのかな」 いくらなんでも、普段はもう起きている時間。夕べもどこかへ遊びに行っていたらしいから、また二日酔いかもしれない。帰ってくる前に寝てしまったので、正確な時間はわからないけれど。キッチンから続く師匠の部屋の前に立ち、ノックしながら呼びかける。 「白澤様ー?いい加減起きて下さいよ」 返事はない。ただのお寝坊さんのようだ。入りますよ、と断ってから桃太郎は扉を開けた。カーテンが引かれた室内は薄暗い。奥の方に置かれたベッドには案の定、師匠がこちらを向いて目を閉じていた。と、何か柔らかいものに足が当たる。 「…?」 視線を下げると、それはひと組の布団だった。来客用にしまってあったものだろうが、どういうことだろう。顔を上げてベッドの方を確認した。暗さに慣れた目で見ると、師匠の細身の背中に、髪の長い女性がぴったりくっついて寝ていることに気付いた。夕べ遊んでそのまま連れ込んだのか、と毎度ながら呆れてしまう。かといって今起こして女性が嫌な思いをしては難なので、ため息をついて出ていこうとした。……のだけれど。 「…ん?」 わずかな引っかかりを感じて、桃太郎は足を止めた。それから、くるりと振り返る。師匠の隣で眠る女性、何だか見覚えが――― 「…美蓉様?」 髪を下ろしているのでパッと見ではわからなかったが、確かに彼女だ。よくよく見れば、美蓉の腕は白澤の腰にしっかり回されていて、ついでに衣服は大分寝乱れている。…え、ちょ、これってつまり、 「…ん、」 「…!!」 「……あれ、桃タロー君?」 タイミングが良いのか悪いのか、白澤が目を覚ました。頭をかきながら起き上がろうとして、後ろからホールドされている所為でうまくいかずに首を傾げる。 「んー…?」 「あの、白澤様…後ろ後ろ」 弟子に言われて肩ごしに背後を見て、あぁ、と呟いた。 「…ちょっと、美蓉」 「…うー…」 「お前の布団あっちだろ、何勝手に入ってきてんの」 「……あれ、床固くて寝れない…」 「贅沢言うな」 徐々に覚醒してきたらしく、白澤は美蓉の腕を引っペがしてベッドに腰掛けた。すると、また彼女の腕が腰に絡んでくる。 「…おい、」 「んー…」 「立てないんだけど」 文句を言う後ろで、妹はもぞもぞと動いて兄の膝に頭を乗せた。黒髪が床に垂れる。 「いい加減に、」 「…はくたくぅ」 「……しょがないなぁ、もう」 舌っ足らずに名前を呼ばれて諦めたのか、兄は苦笑いで桃太郎に視線を向けた。 「起こしに来てくれたのに、ごめんね。こいつ寝起き悪くてさ」 起き抜けは大体こうらしい。そう聞いて普段の彼女とのギャップに驚く反面、ちょっと安心した。 「白澤様のこと、実の妹さんにも見境なく手ェ出すド底辺野郎かと思いかけました」 「あは、桃タロー君まで寝惚けてんの?」 僕にとってこいつは“女の子”じゃないんだよ。白澤は、床に垂れた彼女の髪を耳にかけてやりながらそう言った。 「それ、聞きようによっちゃ物凄く失礼じゃないですか?」 「そうだねぇ、でもホントなの。“女の子”じゃなくて、“妹”」 「…妹も女の子では?」 「それ言っちゃったら、『鶏が先か卵が先か』って話になるよ」 要するに、白澤本人にも彼女の位置づけの説明は難しいらしい。そんな話をしていると、唐突に美蓉が体を起こした。周りに注意を全く払わない行動で、彼女の頭が兄の顎を強打する。 「ぶっ」 「……」 「え、ええと…おはようございます、美蓉様」 「あ?」 「ひっ…!?」 ぼーっと虚空を見つめていたかと思えば、声をかけてきた桃太郎にメンチを切る。…美蓉がこんな低い声を出したのを彼は初めて聞いた。 「…なんだ、桃くんか。…舜の阿呆かと思った」 「しゅ、舜…?」 「なんかすっごく嫌な夢みたなぁ……あ、おはよう桃くん、お邪魔してます」 大きく伸びをしてあくびをひとつ、完全に目が覚めたらしく、彼女は桃太郎にいつもの顔で笑いかけた。 「昨日、飲みに行った帰りにばったり会ってね。家帰るの面倒だったから、泊めてもらったの」 「美蓉様の家ってどこにあるんですか?」 「中国地獄よ。…ねぇ、お茶淹れてもいい?のど渇いちゃった」 そう言って立ち上がり、彼女はこっちに歩いてきた。 「あ、お茶なら俺が――」 言いかけて。美蓉が脇を通り過ぎる時、ほんの少し肩が触れた。ふわりと動いた空気とともに一瞬で離れたのに。 「……っ、!?」 彼女が部屋を出て扉を閉めた途端、足に力が入らなくなった。がくんと傾いだ桃太郎を、いつの間にか回復していた白澤が支えた。 「…大丈夫?」 「は、はい…すみません」 疲れているのだろうか。まだふらつく足元を気にしていると、師匠は小さな声で呟いた。 「…そろそろかな」 なにが、と何とか声に出すと、師匠は微笑んだ。…少し、寂しげな表情にみえた。 「『禍福は糾える縄の如し』、って故事知ってる?」 閉店後の極楽満月。片付けをしている桃太郎に、白澤はそんな風に切り出した。結局開店後も店にいて、気ままに来客の相手なんかしていた美蓉は、先ほど笑顔で手を振り帰っていった。 「あざなえる…?」 「幸福と禍(わざわい)はより合わせた縄のように表裏一体で、代わる代わる訪れるものだって意味」 幸福の後には不幸が来て、その逆もまた然り。 「要するに、災難があってもその後には良いことがあるはずだから気落ちすんなよーってことね。逆に、良いことの後には悪いことがあるかもしれないから、あんまり浮かれすぎても駄目っていうこと」 「『楽あれば苦あり』と同じような意味ですか?」 「うん。そうだね」 神獣は笑って頷き、お茶をすすった。洗った器を拭きながら、桃太郎はふと考える。幸と不幸は隣り合わせで、切っても切れない関係。 「そういえば、白澤様と美蓉様もそんな感じですよね。白澤様がいたと思ったら、美蓉様に会うことってけっこう多いです」 「それは、あいつが桃タロー君のこと気に入って顔見に来てるだけじゃないかなぁ」 「え?俺、美蓉様に気に入られてるんですか?」 美蓉は人当たりが良く、誰にでも割と好意的な接し方をする。桃太郎が振り返って尋ねると、師匠は頬杖をつきつつ首肯した。 「桃タロー君はあんまり気を遣わなくていいからねぇ。一緒にいて楽なんだと思うよ」 相当な自由人に見える美蓉だが、表に出さないだけで色々気を回しているのだろうか。一緒にいて楽だと思ってもらえているのは素直に嬉しいが、少しだけ彼女のことが心配になった。すると、そんな桃太郎の心情を察したのか、白澤がちょっと優しい声音になって言った。 「心配しなくていいよ。あいつ、自分の言動で相手がどう思うか気にするほど殊勝じゃないから。あいつの場合は、違う意味の“気遣い”」 「…というと?」 片付けを終えた弟子に師匠は座るよう促した。席についた彼の前へ、いつの間に用意してたのかお茶のカップを置く。 「あ、すみません。ありがとうございます」 湯気の立つそれを傾けた時、あれ?と思った。 「新しい茶葉買ったんですか?」 「…どうして?」 「いつもとちょっと香りが違います」 味に違いはないのが不思議なところだが、少し果物のような瑞々しい香りがついている。 「よく気付いたねぇ、さすが桃の申し子」 若干芝居がかった調子で言いながら、白澤は小さな瓶を取り出した。中身は入っていない。 「君が飲んでるお茶に、この中身が入ってるんだ」 「…な、何の薬ですかそれ」 「やだなぁ、そんなに警戒しなくていいよ。薬っていうか、一種の呪いみたいなもんだけど」 「の、呪い!?」 この神獣、何を笑顔で言っているんだ。もう何口も飲んじゃったよ、と青ざめる弟子に師匠はころころと笑った。余談だが、その笑い方が妹とよく似ていた。 「作る過程が呪いじみてるってだけで、害はないよ。むしろ害から守ってくれる系だよ」 ねぇ、桃タロー君。 「今朝から体調悪かったでしょ?」 「…分かっちゃいました?すみません」 「気にしないで。…それで、そのお茶飲んだら楽になってない?」 「そういえば…」 朝起きた時は何ともなかったのに、その後から急に体全体がだるくて仕方なくなった。特に肩から腕にかけてが重くて、動かすのもやっとというくらいだった。――部屋から出て行く時に美蓉の肩が触れた側の、腕だ。それが、例の謎の薬が入ったお茶を飲んだら波が引くように重苦しさが消えていった。 「それね、邪気よけの薬なんだ。原料は仙桃」 桃は邪気を払うという。果物のような香りがしたのは、原材料の所為だったのか。 「と、僕の血」 「…は?」 「仙桃に色々生薬混ぜて、隠し味に僕の血液をちょっぴり入れてあるの」 事も無げに言ってくれるが、桃太郎は唖然とした顔でカップを置いた。吉兆の神獣の体の一部なのだからある意味凄い霊薬なのかもしれないが、血を飲むなんてあまり気分の良いものではない。 「あはは。やっぱりちょっと気持ち悪いよねぇ」 「あ、いえ、そういう意味じゃ…」 「いいのいいの。…まぁ、そうでもしないとあいつに関わった人たちが無事で済まないからさ」 あいつ。誰とは言わずとも、理解できた。 「ねぇ、桃タロー君。美蓉の本名、知ってるよね?」 「…饕餮、ですか?」 「そう。『饕餮』っていうのはね、文字通り何でも食べる妖怪なんだよ」 饕餮の『饕』は財産を貪る、『餮』は食物を貪るという意味を持つ。その名に恥じることなく、饕餮はあらゆるものを喰い尽くす神だ。実体があろうとなかろうと、彼女には関係ない。 「食べ物だけじゃなく、生き物の生気や感情なんかも吸い取っちゃうんだ。ちょっと触っただけ、挨拶を交わしただけ。その程度の関わりでも命取りなんだよ。…本人の意思には関係なく、ね」 幼い頃はまだ力の制御ができていなかった所為で、色々とトラブルがあったそうだ。 「今は自分でコントロールできるからいいけど、それでも全く影響がないわけじゃないんだ。塵も積もれば、ってヤツだね」 たまに関わるだけなら問題なくとも、浅からぬ関わりとなれば別だ。悪神の生まれ持った瘴気は、本人たちの気付かないところで蓄積し――いつかは。 「そこで、この薬。あいつと付き合いの長い人には、時々これを飲んでもらって邪気払ってるんだ」 「白澤様も飲んでるんですか?」 「僕は飲まなくても大丈夫。僕の性質はあいつとは対極だから、相殺されるんだよ」 そこで、先ほどの故事だ。吉凶はコインの裏表、幸と不幸の最たる存在同士だからこそ、普通に接することができる。なんというか、皮肉な話だ。 「桃タロー君は桃の申し子だからね。他の人よりは邪気にあてられづらいんだと思うよ」 だから“楽”なのか。桃太郎相手であれば、耐性のない人よりも気を遣わず接することができる。しかし、そんな桃太郎でも今朝はちょっと肩が触れただけで体調が悪くなった。それについて、白澤はふっとため息をついて答えてくれた。 「…どうしても制御がきかなくなる時があるんだよ」 「それってどういう時ですか?」 恐る恐る尋ねる弟子に対し師匠はぽつりと言った。 「死ぬ時」 あまりにも短い言葉に、一切の動きが止まる。 「し、死ぬって…どういう、」 「君らにとっての『死』とはちょっと違うかな?何千年か周期で“そういう時期”がやってくるんだよ」 「時期…?」 「そう。まとまった期間眠って、霊力とか肉体の回復を行うの」 一旦その時期に入れば、数十年から数百年単位で眠り続ける。その間は仮死状態であるため、厳密には異なるが『死』と表現することもあるそうだ。 「つまり、美蓉様はその時期が近いと…」 「近いっていうか、もう片足突っ込んでるねぇ。…ついにどっかのハシビロコウまでやられたみたいだから」 ハシビロコウ。彼がそんな風に例える人物はひとりしかいない。 「ほ、鬼灯さん大丈夫なんですか?」 「すぐ薬飲ませたらしいし、問題ないと思うけどね。…ま、後でちらっと様子見に行ってやるよ。気が向いたら」 そうは言いつつちゃんと見に行くことを、桃太郎は知っている。いくら嫌っているとはいえ、自分の作った薬を飲んだ患者なのだから容態は気になるのだろう。 「だから、あいつに言っときたいことあるなら今のうちだよ。一度寝たら何十年も会話できなくなるから」 邪気のコントロールが上手くいっていないから、あんまり関わりすぎるのも危ないけど。そう付け加える師匠の顔は、微笑んでいる。しかしそれは、今朝美蓉の邪気にあてられた桃太郎を支えた時のような、寂しげなものだった。 ――――――――――――― 今回説明しかしてない白澤さん。夢主の交友関係は、兄貴みたいな瑞獣か難訓レベルの悪神かの両極端。 |