雨を降らすという仕事を放棄しているということは、この辺りの龍神が機嫌を損ねている、もしくは何らかの理由で通力を使えない状態のどちらかだろう。今回は、前者だったけれど。 「…あぁ。あの、恩知らずどもの村か」 やっとこさ見つけた龍神は、突然現れた美蓉に目を丸くしながらも話は聞いてくれた。中国妖怪の裏ボスに当たる彼女を前にしても動じないところは、さすが神というべきか。あの丁という子供が住む村周辺に雨を降らせない理由を問うと、龍神は不快そうに先のとうなことを口にしたのだった。 「これまで我に感謝のひとつもしてこなかったくせに雨乞いなど、何を今更」 「困った時だけ神頼みするのは、うちも一緒よ」 この前兄が、何だか現金だよねぇと苦笑いしながら小さな村にちょっとだけ加護を与えているのを、彼女は思い出した。それに対し、龍神はふんと鼻を鳴らす。 「生憎、我は白澤殿のように甘くはない。神への感謝を忘れている者どもを、何ゆえ助けてやらなくてはならぬ?」 「そんなこと言ってたら、人がぽんぽん死んじゃうわよ」 気持ちは分かるけど。美蓉としては話がスムーズに進むように気を遣ったつもりだが、龍神はその言葉が癪に触ったらしい。逞しい尾を床にだん、と叩きつけ、鋭く彼女を見下ろした。 「気持ちは分かる、だと?ふざけるな!貴様のような悪神に、我ら瑞獣の何を理解できるというのだ?」 声を荒げる龍神に、美蓉は軽くため息をついた。一般的に良い神様といわれる者たちにも、それなりの苦労や思うところはあるのだろう。理解したくないわけではないが、少なくともこいつから教わるのは御免だ、と彼女は思った。短気な性格なのか、元々人間たちのことを相当腹に据えかねていたのか、龍神は苛々と尾を揺らしながら低く言った。 「とにかく、我は動かぬぞ。分かったらとっとと帰りやれ」 龍神は、そう言って尾を払った。言われなくても帰るわよ、と心の中で舌を出しながら、美蓉は口を開く。 「ねぇ、龍神さん。ひとつ、いいかしら?」 「なんだ」 「雨乞いの儀式でね、小さな子供が生贄に決まったのよ」 「贄だと?そんなもの要らぬ。恥知らずどもからの捧げ物など、誰が受け取るものか」 「…それじゃあ、その子は無駄死にってことになるわよね」 「それは彼奴らが勝手に勘違いして勝手に殺すだけ。そもそも、あのような汚らわしき生き物の雛が一匹死んだとて、我には関係のないことだ」 ヒトなど放っておいてもじき殖える。そう吐き捨てる龍神に、美蓉は軽く目を閉じた。再び開いた時、その瞳からは何かが消えていた。 「…そう。よく分かったわ」 穏やかな声だが、周りの空気が一気に冷えるのを、龍神は感じた。 「時に、龍神さん」 「…まだ何か用か」 ぱきり、と薄氷が割れるような声音が、耳に届く。 「お腹空いてない?」 「…は?」 声と対照的に、彼女の表情は柔らかく人好きのするもののままだ。 「な、なにをいきなり…」 「…どう?」 「…別に空腹ではないが」 彼女の言葉の真意を測りかね、龍神は注意深く答えた。すると、 「あらそう。…私は、空いてるわ」 ペコペコよ。禍々しき神はいっそう深く微笑んだ。 「…あは、さすが龍神ってとこかしら」 やっと自由に動かせるようになった体を起こし、美蓉は薄く笑った。社の中は、空気にかすかな鉄の匂いが混じっているくらいで、とても静かだ。如何な美蓉といえど、龍神まるまる一柱分の霊力を一度に摂取したせいで、しばらく体が言うことを聞いてくれなかった。正確な時間の経過は分からないが、少なくとも一日ではきかない時間が経っているだろう。 「…早く、行かなくちゃ」 約束には大分遅れてしまったけれど。まだ若干重い体を引きずって、美蓉は龍神の社を後にした。 * * * * * 例の子供と話をしてから、一日どころか何日も経っていたらしい。何万年も生き続けている彼女にとっては一瞬だが、人間にとってはそうではない。何か事が始まり、そして終わるには十分な時間であった。 「……」 あの川辺に行ってみるが、当然子供はいなかった。川の水もいよいよ完全に干上がってしまっている。風に乗って流れてきた変わった煙の匂いに、美蓉は顔をそちらに向けた。燃やされたことでこんな匂いを発する植物を何種類か思い浮かべる。そのいずれも、人間の世界では特別な儀式で使われる場合があった。魔除けの力を持ち、生贄を無事神の元へ送り届けるという意味合いで。 匂いを辿って村に足を踏み入れると、雰囲気が明らかにおかしかった。村外れには祭壇が設置されており、何かの儀式が行われた後のようだった。祭壇付近にはしめ縄が張られており、立ち入りを禁じている。しかし、構わずしめ縄を潜る。焚かれた火から上がる煙が彼女に絡み付いてくるが、鬱陶しそうに片手で払うと拡散して消えてしまった。この程度の魔除けの力、美蓉にとっては痛くも痒くもない。彼女は、祭壇にゆっくりと近づいた。その上にはひとりの子供が横たわっていた。真っ直ぐな黒髪をお団子にまとめたその姿は、まさしくあの、妙に大人びた子供だった。 「…丁」 返事はない。更に近づいてみると、小さな胸はぴくりとも動かず、もう死んでいることが見て取れた。 「……」 普段から神や自然への感謝を忘れなければ。搾取するだけではなく、共存することをちらとでも考えていれば。龍神は怒ることなく、きちんと恵みを与えてくれていたことだろう。見れば、子供の頬にはうっすらと涙の跡がついている。あんなに冷静ではあったが、やはり死の間際は怖かったのだろう。 「…遅れてごめんね」 子供の頬を手の甲で撫で、美蓉は冷たい体に話しかけた。 「龍神に会ってきたよ。何だか嫌な奴だったけど。大丈夫、ちゃんと雨は降るわ」 あなたは無駄死になんかじゃない。 「おいで。最後に村の連中に挨拶してこよう」 優しい声で言って、彼女は子供を抱き抱えた。驚くほど軽い。するりと足を踏み出し、彼女は村に向かった。 雨乞いの儀式を行ってから数日、村に見知らぬ女がやってきた。長い黒髪を結い上げ、凝った刺繍のされた衣服を纏ったその女は、この世の者とは思えないほど美しかった。女は腕に子供をひとり抱えており、よく見るとそれは、先日生贄として神に捧げたはずの孤児だった。 「ごきげんよう。突然悪いが、雨神様の使いで参った」 温和な微笑で女は言った。雨神の使いが来たということは、我らの願いが届いたということか。村人たちは喜んで、みんな家から出てきた。その中で、ひとりの男が前に進み出る。 「これはこれは、わざわざ御足労頂き――」 「挨拶はいい。汝が村長か?」 男は恭しく頷いた。そうか、と女は柔らかに微笑む。 「雨神様から伝言だ。心して聞くが良い」 そして、女は決して大きくないのに村全体に通る声で続けた。 「雨神様は、汝らの誠意に甚く感激しておられる。捧げ物にも大いに満足したとの仰せであった」 「それは、勿体無きお言葉でございます」 「汝らの願いは雨神様へ十二分に伝わった。よって、この地に再び雨の恵みをお与え下さるそうだ」 そう言って、女はすっと腕を持ち上げた。手のひらを上向けると、一瞬にして辺りが薄暗くなり、やがてぽつり、と雫が落下してきた。雫は後から後から、その数を増して村の上に降り注いだ。 「あ…あ、雨だ!」 待ち望んだ恵みに、誰かが声を上げる。続いて、村人たちは皆両手を掲げて天を仰ぎ、歓声を挙げた。その光景を一通り見渡して、その目の中に犠牲になった小さな命への悼みなど欠片もないことを確認し――彼女は、にこりと笑んだ。 「…では、私はこれで」 「はい!本当に、本当にありがとうございました!」 村人たちが口々に礼を言うのを背中で受けて、彼女は煙る霧の向こうに消えていった。その後を追うように雷鳴が響いた。低く――低く。 ――――――――― 村を見下ろせる高い場所に、彼女はのんびりと腰掛けていた。絶え間ない雨から自身と膝に乗せた子供を守るため、付呪を施した羽織を頭から被っている。そこへ、強い凶の気を感じ取ったのだろうか、ふわふわと鬼火が寄ってきた。 「誰かと思えば、饕餮様か」 「握り潰されたいの?あなたたち」 「おお、怖い怖い。…それよりその小さいのは何だ?死んでるようだが」 「饕餮様が死肉を喰うなど、珍しい」 「この子は食べないわよ。気に入ったから、お持ち帰りするの」 彼女は艶々とした髪を撫でながら言った。すると鬼火たちは、ふよふよと子供の顔の近くに飛んできた。 「いい体だなぁ。しかも子供だ」 「さぞ無念だろうな」 「我ら皆で入れば、完全な鬼になれるかもしれんぞ」 ふわふわとそんなことを言っている。 「なぁ、饕餮様。持ち帰るなら、ついでに我らをそいつの体に入らせてくれ」 「鬼…か。悪くないかもね」 力も強いし、頑丈だ。ぽわぽわと飛び回る鬼火たちに向かって笑いかけ、美蓉は了と返事をした。待ってましたとばかりに、鬼火たちが小さな体に入っていこうとするが、ふと押し止められる。 「なんだ?」 「入ってもいいけど、もうちょっと待ってくれる?」 つと眼下を指差す。その先には、例の村があった。 「もうそろそろだから」 ――――――――― 柔らかい、艶のある歌声に感覚がゆっくりと蘇る。子守唄のようなそれにまた意識を手放したくなったが、背後に聞こえた雨音にはっとして目を開けた。 「…ん。おはよう」 歌が止み、そんな声がする。見上げると、覚えのある顔が目を細めて見下ろしてきていた。 「貴女は……浮浪者、さん?」 「ふふ、相変わらず随分な言われようよね」 儀式のため、禊をする水を汲みに行ったところで遭遇した、自称神様の女性だ。己が生贄になったら雨を降らせてくれるかどうか聞いてくれると約束したのを最後に別れたはず。約束は翌日の同じ時間だったが、儀式が早まったことによりその場所へ向かうことはできなかった。 「…私、死んだと思ったのですが。何故貴女に膝枕されてるんです?」 「それはね」 女性は、長い指で丁の額を突いた。正確には、そこに一本生えた角を。丁は起き上がり、自分の額を始めとして体を確認した。耳は尖がり、額には確かに角が一本生えている。見事に鬼になった丁は、きょとんとした顔で女性を見上げた。 「…どういうことですか」 「あなた、死ぬ前に村人へ恨みごと言ったんだって?多分それでだと思うけど、鬼火が集まってきてね。あの子たちは体を欲しがってるから、あなたの体に入って、鬼になりましたとさ」 「…何だか分かりませんが分かりました」 とにかく、体に鬼火が入ったことで己は鬼として蘇ったということは理解できた。きっと、それだけ分かっていれば十分なのだろう。 「鬼になったことはいいのですが…」 「けっこう冷静なのね」 「村人に、せいさいを加えるチャンスができましたから」 さらりと怖いことを言ってのける。そんな彼にころころ笑い、女性はある一点を指した。視線を向けると、そこは生前暮らしていた村――だったはずだ。 「…!?」 丁は短く息を呑んだ。眼下には、ひたすらに黒い土や砂、石ころが広がっていた。ところどころに人工物の残骸が見えるくらいで、後には何もない。 「これ、は…」 「ここんとこ、ずっと雨降りだったからねぇ。元々この辺の土は柔らかかったし、水を含んでもっと崩れやすくなっちゃったのね」 昨日のことだと彼女は話した。夜中で、村の誰もが寝静まった時間だったと。 「…では、村人はみんな…」 「多分ね」 しばらく二人共黙って、遥か下の光景を見つめた。やがて、丁がゆっくりと口を開く。 「…貴女がやったんですか?」 「いいえ?私はただ、雨を降らせただけ」 龍神様に譲ってもらった力を使ってね。そう言ってふふ、と笑う。 「でもまぁ、とりあえず全員黄泉へ行ったでしょうね。…後はあなた次第よ、丁」 「え?」 「村の連中に仕返しするんでしょ?黄泉は物凄く広いらしいけど、頑張れば見つけられるかもね」 時間はあるわ。 「あなた、もう寿命の心配はしなくて良いもの。鬼だからあっちも快く迎えてくれるわよ、きっと」 ゆっくりどうするか考えなさいな。軽い調子で口にして、ふわりと岩場を降りた。そして、羽織を丁の頭から被せた。 「…?」 「もうすぐ雨が止むわ。そうしたら、黄泉に行くといい。入口はこの先よ」 すい、と女性は木々の先を指さした。 「昨日の土砂崩れで騒がしくなってきてるから、多分山神のひとりくらいいると思うから」 それじゃ、と手を振り、彼女は雨の中を歩き出した。 「…あ、あの!」 「なぁに?」 くるりと振り返る。その目をじっと見つめて、丁はひとつだけ尋ねた。 「貴女のお名前を、教えて頂けませんか」 すると女性は、悪戯っぽい微笑みで彼を見返した。 「やっぱり『丁』なんて名前、変えた方がいいわよ。いいのが決まったら教えてね。…私の名前も、その時教えてあげるわ」 ま、縁があったらね。 「……、…」 濡れた土を踏む音がだんだんと遠ざかり、完全消えた頃。雨足が弱くなってきた。彼女が残していった羽織をきゅっと掴む。美しい布からは、嗅いだことのない花のような香りがした。 天国って、こんな匂いがするんだろうか。小さな鬼は、ぼんやりとそんなことを思った。 「鬼火に丁だから…そうね、『鬼灯』なんてどうかしら」 歩きながら、誰に言うともなく呟いた時。 「…四凶の一、饕餮だな」 背後からかけられた声に、足を止めた。振り返るまでもなく、彼女はふわりと笑んだ。 |