ふわりと香った煙の匂いに、意識が引き上げられた。重い瞼を薄っすら開くと、すぐ隣にうつ伏せになった彼女が頬杖をついて煙管をふかしているのが見えた。見覚えのある意匠のそれは、もしかしなくても鬼灯の物だ。 「…それ、私のなんですけど」 寝起きのせいか、掠れた声が出た。彼女がこちらを向いて微笑する。 「おはよう。よく眠れた?」 「完全に寝不足です」 「あら、ちゃんと寝なきゃダメよ」 「いったい誰のせいだと…」 身じろぎをして、衣擦れとともに鋭角の痛みが肩口を襲った。夕べ、彼女に思い切り噛まれたところだ。痕付けてもいい?と聞かれたので、服に隠れるところならと答えたが、ここまで強くしろと誰が言った。 「…いたい」 「へぇ。鬼灯でも痛いと思うことあるのね」 「私を何だと思っているんです?」 「閣下」 なんだそれは。心の中でツッコミを入れつつ、懐中時計を確認する。時刻は午前5時。 「…美蓉さん、意外と、早起きですよね」 「何で『意外』を強調したの?」 「毎日昼過ぎまで寝てるイメージがありますから」 「失礼ね、私のこと何だと思ってるの?」 「色魔」 簡潔にばっさり言われた言葉に対し、彼女はおかしそうに笑う。 「その色魔に引っ掛かってるのはどこのどなたでしょうねぇ」 「うるさいですね。…ていうか、その着物も私のじゃないですか。なに勝手に着てるんです」 「この襦袢、綺麗な朱色なんだもの。どう?似合うかしら」 「全然」 あら、厳しい。さして傷ついてもいない口調でそう言うと、彼女は起き上がってベッドを降りた。盆に煙管を置き、鬼灯の襦袢をするりと肩から落とす。真っ白な背中と黒い髪の対比が美しかった。床に散らかしていた己の着物を取り上げて身に纏い、あっという間に身支度を終える。夕べ来た時と同じ格好になると再び戻ってきて、ベッドに腰掛けた。 「…帰るんですか」 「ええ。貴方今日は非番でしょ?せっかくのお休み、邪魔したくないからね」 こんな時だけ空気を読んでくる。それ意外はこちらの事情なんかお構いなしに、せっせと踏み込んでくるくせに。全く、何なんですか、貴女は。そんな思いを込めて見上げていると、不意に白い指が伸びてきた。毛布を少しだけ避け、彼の肩口についた自己主張の激しい痕をなぞる。 「…ごめんね」 「おや、珍しく殊勝ですね。明日は雹が降りそうです」 「八寒はともかく、八大でそれは事件ね」 くすりと微笑み、彼女は立ち上がった。本当に身一つで来たらしく、カバンも何も持たない状態で扉に近づく。もう幾度となく、鬼灯はそんな後ろ姿を見てきた。 「おやすみ、鬼灯」 「何で二度寝する前提なんですか」 「だってするでしょ?」 「…しますけど」 悔しいが。案外素直に認めると彼女がころころ笑った。こういう言い方は癪だが、その表情は可愛かった。 「それじゃ、回頭見」 最後は中国語で言い、彼女は部屋を出て行った。 「……」 遠ざかる靴音を聞きながら、毛布をかぶり直す。つい数十分前まで彼女もその下にいたせいか、ほんのりと香の匂いがした。 ―――――――――――――― 鬼灯さんとは大人な関係性を築いている夢主。ちなみに『回頭見』は「またね」の意。 |