約束は呪い
ひとつ年下の妹は俺にあまり似ていない。けれど、私にはそっくり。
笑ったときに前歯が見えるのも一緒だし、悲しいときには眉をきゅっと寄せて俯くところとか、かと思えばすぐ立ち直って駆け出していくところとか、考え出したらきりがないくらいだ。
だから、仕方ない。
「お兄ちゃん、あのさ、あたしお兄ちゃんの友達に告白されたんだけど…」
「名前はそれで迷惑しているのか?」
「そんなことない!ずっと憧れてたし!だけど、いざとなったらどんな顔で返事すればいいのかわかんなくって」
「普段通りでいいだろうに。自信をお持ちよ」
「それができそうにないから困ってるんじゃないのよー…」
「で、誰に告白されたんだ」
彼女の唇からこぼれ落ちるだろう言葉には、いくらか予想がついていた。だって、俺が彼らに紹介したのだ。今からそれを聞くにも関わらず、平静を装っている。本当は気が気でないくせに。
桜色に色づいた唇から紡がれた単語に目を眇めた。けれど今の自分ならうまく笑えるはず。泣いたって何も変わらない。
「名前先輩」
「何だ」
「好きです」
「馬鹿か」
「嘘です」
「どっちさね」
生まれたときはまだ楽観的だった。出会ったとき、初めて壁があることに気付いて。俺の姓に何かを感じた彼が、妹はいないかと尋ねてきた。
いるよ。私にそっくりな、だけど私ではないあの子なら。
律儀な妹はうまくいったことを教えてくれた。自分が嬉しいことは私も嬉しいことなのだとでも思っているのだろうか。しかし妹の彼氏に嫉妬するならともかく、兄である自分が妹に嫉妬するのはおかしいことなのだろう。あくまで一般的にはだが。
傍目から見ると俺はシスコンらしい。確かに大事に育ててきた。ただ、私の顔であまり粗雑な振る舞いをして欲しくなかっただけだ。だがそのために、彼女への嫉妬は彼への嫉妬に変換される。
やめてくれ。そんな風にとらえられれば、彼に疎まれてしまうではないか。妹なんかよりも、あの人が好きでたまらないのに。
「名前せんぱーい」
「どうした」
「だいっきらいです」
「…そうか」
「うっそー」
「おい」
「ずっと一緒にいよう」と言って小指を差し出したのはあなた。それに応えて指を絡めたのは私。輪廻を巡り続ける限り永遠に添い遂げよう。そう言っていたのに、あなたは盛りを過ぎた花が枯れるように消えていった。忘れ形見も残さずに枯れてしまった。
例え己が死んでも、後を追うことはしないで欲しい。あなたがいなくなったあとで、その言葉に頷いた自分を恨み、悔やんだ。ずっと一緒にいたくても、それはあなたとの約束を破ることになる。私の手元に遺されたあなたの残滓は約束だけだったから。
頑張って生きて、生きて生きて生きて、ある日糸が切れるように死んだ。恐れなんてなかった。あなたがいないこと事態が恐怖だった。
そして私は俺になり、今に至っている。今日は、彼が妹の恋人として会いに来る日だ。この服でいいかしらとか、食事はこれくらいでとか、まだ埃があるわとか、小うるさい母の声に急き立てられて俺は家中を駆けずり回る。
…何をしているのやら。
不意に冷静な自分に気付き、自嘲したところで妹と彼の話し声が聞こえた。飛び上がるほど驚いて、化粧は大丈夫かとしきりに心配する母をその場に俺は玄関へ向かう。右手には鞄だ。
「いらっしゃい」
「名字…」
「何だその顔は。ここは俺の家でもあるんだからいて当たり前だろうさ、何がおかしい」
「あれ?」
妹が覗き込むように俺の手元の鞄を見た。そして服装を胡乱げに見つめる。
「日曜日なのに…」
「呼び出された。雑用だと思うけどな。それじゃあお二人さんごゆっくり」
「あっ、お兄ちゃんネクタイ曲がってるよ!」
「お前ね、そういうのは彼氏の目の前でやるべきことじゃないよ」
「先輩はそんなに心の狭い人じゃないもーん。はいできた」
「……ありがとう」
笑顔から逃げて、俺はドアノブを回した。行く当てなんかない。だからといって、家の中にいるのは嫌だった。歩みが速まる。
母はすぐに彼を気に入るはず。父は少しだけ渋っていたが、それも時間が解決するに違いない。厭わしいものは彼ではないのに家の中ですら立場が危うくなるのだろうか。
歩みがますます速くなる。もはや小走りと言えるくらいだ。
「そんなに急いでどこに行くんですか」
「…綾部か。学校さね、見ればわかるでしょうよ」
後ろから唐突に声をかけてきたのは、俺と同じように男女を引っくり返して生まれてきた彼女だった。俺と違うのは、もともと美しかった顔がまろみを帯びてさらに美しくなった点だと思う。ちなみに彼女も制服である。妹とは色違いの、薄青のリボンをつけていた。
「どうぞ」
「…どういう意味だ?」
以前よりも白く、綺麗になった手のひらが差し出してきたのは藤色のハンカチ。俺は首を傾ける。体のどこも濡れてはいない。
「今にも泣きそうな顔をしてます。けどそんな名前先輩も好きです」
「だから何度言ったら…」
「先輩が振り向いてくれるまでやめるつもりはありません」
はあ、と息を吐いて俺は額を押さえる。この後輩は昔から勘が鋭く訳のわからない部分が多々あったが、生まれ変わってもこうだなんて思いもしなかった。三つ子の魂は百以上まであるのかもしれない。
彼女は俺の名を頑として呼ばない。妹が傍にいないときだけ、いつも私の名で呼ぶ。それで彼女に恋をするかはまた別の話だが、その行為は確実に俺の心を掻き乱した。
「…話すなら歩きながらにしよう」
「わかりました」
本当は、妹は悪くない。約束通りに生まれてこなかった自分を思い起こして勝手に苦くなっているだけだ。理解している。それでも、どうして忘れたのではなく初めから知らない彼女を選ぶのかと叫びたくなるときがあった。その名も、顔も、声も、もとは私のものだったのにどうして。
私はあの人を愛していた。何よりも愛しくて、怖いものはないと思えるほどに。俺になっても想いは変わらない。愛と言うには、あまりにも邪悪であったとしても。
もしなどないとわかっているが、もしあのときあの人との約束を破って追いかけていれば、何か変わっていたのだろうか。あれは生き残った私をがんじがらめに縛り付けた。そもそも、あの人本人ではない約束を意固地になって守り続けて、それで今に繋がるのならあの人形めいた日々は何だったのだ。どうせなら、
「先輩の考えていること、当てましょうか」
「できるなら、な」
「"どうせなら忘れてしまいたかった"、でしょう」
「…当たり」
自分を映す黒曜石に薄く笑う。
「それでも俺はまだ望みを捨てられない。絶対ないと言い切れそうでもな」
「じゃあ、先輩が諦めるまで待ってますから」
「早いところ心変わりしておいた方がいい」
「そうは思いません。不安なら約束します」
「それはやめてくれ」
強く拒絶すると彼女はむくれた。
「名前先輩」
「何だ」
「好きです」
今度は直球か、と俺は内心舌打ちをした。雑じり気のない好意だからこそ質が悪い。可憐な美少女と中の上としか言い様のない男。どう贔屓目に見たって非があるのはこちらの方だ。
「…悪い。まだ、応えられそうにない」
「いーです。いつか応えてくれるんでしょう」
変化することが少ない飄々とした横顔を見つめた。万が一とはいえ別の女に惚れるかもしれないのに、この自信はいったい何なんだ。軽く溜め息を吐きながら、彼女の揺れる黒髪に目を滑らせる。心なしか甘い香りがした。シャンプーだろうか。
「近いうちにきっと俺はお前を選ぶ。ただ…言いにくいが、お前を愛せるのかは、わからない」
「だぁいじょーぶ、私が先輩をめろっめろの骨抜きにしてみせますから」
「その顔でめろめろとか言わない」
「あ、でも」
突然ネクタイを引かれた。思わず体制を崩して前屈みになる。
「何を、…ッ!?」
「…呪いなら、口吸いで解けるんじゃないですか?」
「だからっていきなりする奴があるか馬鹿!」
「あーれぇ、もしかしてファースト?」
「そうさね!悪い!?」
「いーえ、むしろラッキーでーっす」
表情がピクリとも変わらないくせに、彼女の周辺に花が舞っているようでは俺も末期だ。この野郎、と小さく呟いて顔を背ける。
初めからわかっていた。あの人が意図して私に呪いをかけたのではないと。これは私の強すぎる慕情が作り出した戒めなのだと。
それを、じわりじわりと綾部が解きほぐしていって。確かに今、決定的な枷が緩んだ。
ゆるされても、いいですか。
「名前先輩、行きましょう」
俺はその白い手を潰さないように、恐る恐る手を伸ばした。
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