確かなものなんてないのになくならないという確証が欲しくてたまらない。でも、それを口にしてしまったらそれこそ今までのことが夢か幻だったかのように消え去ってしまいそうで怖い。
こんなことあの人と付き合うまで少しも考えたりしなかった。
「どうした?」
カップを両手に持った昴さんが不思議そうに僕の顔を覗く。
「別に」
「そうか」
それ以上聞くことなく昴さんは僕の隣に座った。まだ湯気ののぼるカップをひとつ僕の前に置く。
特に何をするでも話すでもないこの空気が好きだ。
ただぼんやりとしながら昴さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。
穏やかな時間を壊すように彼女の携帯が鳴った。煩いとでも言うように眉をひそめながら昴さんは本から顔を上げる。
「もしもし」
電話に出る時、女性は声のトーンが高くなると言うが彼女はそうではない。お陰で電話越しの声は不機嫌なのかと思うくらい低く聞こえる時がある。
「え? ああ……その日はちょっと」
珍しく歯切れ悪く喋る昴さん。
「申し訳ないがそうして貰えると助かる」
話しながら立ち上がり、自分の部屋へと向かう。
ああ、いやだな。
きっと彼女はこれから出掛けるのだろう。そして暫く研究室に泊まると言うはずだ。それは予感というより確信に近い。
ばたばたと聞こえてくる音に瞼を閉じる。
「郁」
名前を呼ばれてもちっとも嬉しくない。でも、それを悟られないようにしてなんですかと振り返る。
「悪いが少し家を空ける」
「学会関係ですか?」
「この間の論文のことでちょっとな」
「わかりました」
物分かりのいいふりをして笑う。昴さんはそんな僕を見て申し訳なさそうな顔をした。
「本当にすまない」
この人はどうしてすぐに僕の嘘に気付いてしまうのだろう。気付かないふりをすればいいのに馬鹿正直に反応してくる。
「昴さんが忙しいのはわかってますから」
「ありがとう。でも、ごめん」
そう言って僕の頭を撫でる。慰めるようなその手つきに胸が痛む。
「無理はしないでくださいね。ちゃんと食べて寝てくださいよ」
「善処する」
「あやしいなぁ」
小さく笑えば彼女も笑い返してくれる。
これでいい。僕がわがままさえ言わなければこの穏やかな時間は途切れない。置いていかれることもない。
「君も無理はするなよ」
「あなたじゃないんだからしませんよ」
「素直じゃないな」
いつもの台詞。どこまでも優しい響きを孕んだそれは僕の心臓を抉る。
素直になったらあなたを困らせるだけなんですよ。
そんな言葉を飲み込んで“おかえり”と言うためだけにいってらっしゃいと彼女を見送る。
「帰ってきてくださいね」
重い音を立てて閉まったドアに向かって呟く。
このドアをあの人が開けなくなる日が怖い。ペアリングや結婚の約束があったとしてもふらりと消えてしまいそうだ。
大切なものほど突然に、そして簡単に消えてしまうのを僕は知っている。でも、それを繋ぎ止める術は知らない。だからこそ、確証が欲しい。もっともっとと愛情に貪欲になってしまう。
僕はこんなにも臆病な人間だっただろうか。あの人と居るようになってどんどん弱くなっている気がする。前のように昴さんが消えてしまったら耐えられないだろう。
一人では広すぎるリビングに目眩がしそうになった。
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