カフェテラスで一人、コーヒーを飲む。この席が一番空が見やすい気がする。真っ青なキャンバスに一本の白い線が描かれていく。
空で繋がっている。
ドラマか何かで聞いた台詞を思い出して笑いそうになってしまった。僕の空を見る癖はそんな理由からじゃない。
「待ったよな?」
「コーヒーをおかわりするくらいには」
そう返せば、謝りながら僕の正面に座った。バツの悪そうな顔をするくせにちゃっかり自分の注文をしている。
「僕、待たされるのは嫌いなんですけど」
「研究会が長引いたんだ。悪かったよ」
「冗談です。別にいいですよ」
もう少し困らせてやろうかと思ったけどやめた。待つのが嫌いなのは本当だけど、この人なら待ってもいいと思ってしまう。
「昴さんが急いで来たっていうのは見ればわかりますし」
少し乱れた髪や服装や呼吸。走ってる姿なんて想像出来ないけどかなり慌てて来てくれたんだろう。
「君は甘いな。小言のひとつでも言ってもいいのに」
そんなことを言われたら期待に答えなきゃいけない気がする。
「じゃあ、お詫びに僕のこと名前で呼んでください」
「は?」
ぽかんと口を開けて固まった。間抜けなその表情に少しだけ前のことを思い出す。
あの講義のあった日。たまには日本に帰ってきて欲しいと言った僕に「何を言ってるんだ?」と昴さんは不思議そうに僕を見た。この時には帰国の日程は決まっていて荷物をまとめにアメリカに行くだけだったらしい。話を聞いた僕は今の昴さんみたいな顔をしていたのか間抜けな顔だと笑われた。
「僕、まだ一度も名前で呼ばれたことないんですよ」
「呼び方はもう癖になってるんだから仕方ないだろ」
僕から視線を逸らしてタイミングよく運ばれてきたコーヒーを飲む。視線を逸らして別の行動をとるのはこの人の照れ隠しだってことはもう知っている。先輩から昴さんと呼び方を変えた時も暫くはこんな反応をしてた。
「そろそろ変えて貰わないと困るんですよね」
「別に今まで困ったことなんてなかったじゃないか」
「今までは、ですよ」
本当に変なところで鈍いんだから。それにももう慣れたし、可愛いと思ってしまうからいいけど。
「同じ名字になった時に、まだ水嶋って呼んでたらおかしいじゃないですか」
「同じ名字って……水嶋?」
「郁です」
カップを包み込むようにしていた手を取る。
その手は紙の資料を使ったりすることが多いせいか少し乾燥していて小さな傷があった。それでも綺麗だと思うのは重症なのかもしれない。
「呼んでみてくださいよ」
「い、郁……」
躊躇いがちに紡がれた二つの音。小さくて回りの雑音に消されてしまいそうだったけど、ちゃんと僕の耳に届いた。
「よくできました」
「年上を子供扱いするな」
「可愛いんだから仕方ないじゃないですか」
喉の奥で笑いながら昴さんの指に用意していたものを通す。
「早く慣れてくださいね」
僕の言葉に自分の薬指に嵌められた指輪を眺めてから眉を下げて昴さんは笑う。
「プロポーズはもう少しロマンチックなものを期待してたんだけどな」
「それはすみません」
「仕方ないから許してあげよう。最初に言っておくが浮気は許さないからな」
「僕だって許しませんよ」
ロマンチックなものを期待していたと言う割りに淡白な返事だ。
でも、きっとこれでいいんだろう。いつか思い出になった時、二人でこのことを笑うんだ。天文学の教師らしいロマンチックな台詞のひとつも用意できなかったのか、と。それに同じようにあなたこそと言い返そう。
思出話を二人でするなら寂しくはない。同じ時間を一緒に過ごしていけば思い出に置いてかれたりはしない。