図書館まで案内すると先輩は本棚から次々と本を抜いていった。初めて会った時と同じように大量の本を抱えている。
「手伝いますよ」
まだ本を増やそうとしているのに見兼ねて先輩の手から本を奪う。すると先輩は小さく笑った。
「初めて会った時と同じだな」
先輩も同じことを思い出していた。
「あの時は笑顔を作るのが下手な奴だと思ったよ」
「え?」
「気付いてなかったのか? 君の笑顔はひどく歪だったよ」
本の背表紙を指でなぞりながら先輩は言った。
僕の笑顔が歪だと言われたのは初めてだ。いつだってみんなあの笑顔に簡単に騙されていたのに。
「今はちゃんと笑えてるみたいだけどね。その方がずっといい」
やっぱりこの人はエスパーじゃないだろうか。いとも簡単に僕の中身を見抜いていく。
「これ……面白いなぁ」
本の内容に気が逸れている。ぱらぱらと流し読みしていく目は真剣だ。
もうすぐこの人はいなくなる。遠くに行って、今よりも研究に没頭して僕のことなんて忘れてしまうんだろう。僕はまた置いていかれる。
「ん?」
視線に気付いた先輩が僕を見る。
先輩の手が伸びてきて僕の頬に触れた。同時に心臓が大きく跳ねる。
「どうして泣きそうな顔をしてるんだ?」
「泣きそう? 誰が?」
「水嶋しか居ないだろう」
僕が泣きそうなはずない。悲しくもなんともないのに涙が出る訳ない。
「ひとつ、アドバイスだ。苦しくてどうしようもない時は空を見るといい。きっと星が導いてくれる」
「それこそ非科学的じゃないですか」
「そうだな。でも、効果は私が保証しよう。私も先輩に教えられてからよくやっているんだ」
自分のことのように誇らしげに先輩がその人のことを話す度、胸がざわつく。
何があろうと先輩はその人のことだけは忘れないんだ。その人には自分から連絡をしていたかもしれない。
思い出じゃ生きられないと先輩は言ったけど、先輩はそれだけで生きている。先輩はいつだって遠くを見てるのがそれを証明してる。
僕のことは忘れて、過去の人間だけで生きていく姿がなんだか腹立たしい。人には偉そうに言う癖に自分はどうなんだ。
「その人の言葉があるから先輩は宇宙論の研究を続けてるんですか?」
こんな返事が来るとは思ってなかったのか珍しく驚いた顔をしている。
「結局、先輩はその人の影を追ってるだけじゃないですか。なのによく僕に偉そうに前に進めなんて言えますね」
まるで開いた傷口から血が溢れてくるようだ。痛みをともないながら冷たい言葉を吐き出す。
「僕と先輩は同じだって言いますけど違いますよ。勘違いして同情されるなんて正直ムカつくんですよ」
傷付いて泣けばいい。僕を嫌いになればいいんだ。そしたら先輩は僕を忘れない。負の感情を伴えばそれは強く記憶に残る。
「……本気で言ってるのか?」
「本気ですよ」
溜め息を吐いた先輩。
そこには怒りも悲しみもない。ただ呆れたように僕を見るだけだった。
「そうか。君には伝わらないんだな」
何かを諦めたように呟いた。その意味が僕にはわからない。見放された。見限られた。そのことだけはわかった。
自分でそう仕向けたはずなのになんとも言えない感情が渦巻く。離れていってしまう前に突き放す方が傷付かないはずなのに、この人も簡単に離れていって他の女と変わらないと笑えない。
「私は、君に自分を重ねて同情していた訳じゃない。だけど、そう思わせてしまったのは私だ。悪かった」
どうして先輩が謝るんだろうか。先輩と居て嫌だったことなんてひとつもない。そう。嫌だったことなんてなかった。先輩の隣は日溜まりの下というより新月の夜のような静かな場所のようで居心地がよかった。僕はそれにずっと甘えていた。
「私の気持ちを押し付けてすまなかった」
僕の手から本を奪うと先輩は一人で歩き出した。
自分から突き放したのに虚しくて仕方がない。すがりつきたくなる自分を抑えて、その場にしゃがみこんだ。
先輩、どうしようもなく弱い僕を許してください。