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「栄口くんってお母さんいないんだって」


ひそひそ話のつもりなんだろうか、教室の隅っこで話す女子たちの声が耳に入った。机に伏せていた顔をあげて声が聞こえた方に目をやると、もう話題は次に移行したらしく、彼女たちは手を叩きながら笑い合っているところだった。


「ハイ、お待たせ」


背後からやんわりした声が聞こえて振り返ると先ほどの話題の人物が紅茶ラテとコーヒーを持ちながら立っていた。その顔にはやっぱりやんわりとした笑顔がぺたりと張り付いている。


「パシってごめんね。ありがとう」
「いいよ。ついでだし。」


これで良かったよね、と言いながらコーヒーを差し出してきた彼の目を見る。なんだか底が見えない穴を覗いた気分になった。彼の瞳はまっすぐなのにどこか暗い。


「栄口、あのさ、」
「ん?なに?」
「栄口のお母さんって」

「あ、チャイム」


言葉の続きは授業開始を告げるチャイムによって遮られてしまった。ガラリと大袈裟にドアを開けて入ってきた教師の姿を見てみんな自分の席へ戻って行く。


「黒瀬、さっきなんか言いかけてなかった?」
「いいの。たいしたことじゃないし」


そう?じゃ、と彼は自分の紅茶ラテを手に持って慌てて自分の席へと帰って行った。




栄口のお母さんって―――
いったい、わたしはその言葉の続きをなんと紡ぐ気だったんだろう。


080915