「今夜は月が綺麗ですね」


自分しかいないはずのこの空間で聞き慣れない声が空気を震わせた。穏やかな、心地良い音。
振り返ると、この辺りでは見たことのない青年が立っていた。その顔には女と見紛うほどの綺麗な笑顔がぴたりと張り付いている。


「……なにか御用でしょうか」
「ちょっと道に迷ってしまって」
「どちらへ?」
「北の方へ」


なんとまあ抽象的な、とは思ったが口には出さない。これ以上この場に他人にいて欲しくない。早く、独りになりたい。


「それでしたら、あちらの林道をまっすぐお行きください」
「ありがとうございます」


顔に笑顔を貼り付けたまま、青年は頭を下げた。これで青年はいなくなり、ここには再びわたししかいなくなる。
そんな思いとは裏腹に青年は一向に立ち去る気配が無い。それどころか、わたしの横にどかっと腰を下ろして冷たい芝の上に寝転がってしまった。


「あの、」
「今日は本当に月が綺麗ですねぇ」
「………」
「手を伸ばしたら届いてしまいそうだ」


先ほどまでは綺麗だと思ったその笑顔はわたしの全てを見透かしているみたいで、なんだか気味悪い。
青年の言葉を無視して、彼に背中を向けたとき、背後の空気が大きく揺れた。



「待ち人なら、来ませんよ」



その言葉は空気を振動してわたしの鼓膜を震わせた。なんで、どうして。あなたがそんなこと知っているの。


「なんで、」
「ここに来る道中でお会いしました。」
「あの人は一緒じゃないの」
「言伝を預かってきたんです」
「そんなのいい。本人が伝えにこればいいじゃない」
「したくても出来ないんです。彼は、」


嫌だ、聞きたくない、聞きたくない。容易に想像出来るその言葉の続きなんて。
あの人本人の声が聞きたい。誰かも分からない人からあの人の言葉を聞きたくない。


「『幸せになれ、』と、あなたに残して逝きました」
「………」


青年の口から出てきた言葉は頭の片隅で予想していたものだったにも関わらず、わたしの脳は理解することを拒んだ。
ああ、やっぱり彼は。ああ、なんてこと彼は、
還らぬ人となってしまったの。


自分の爪先を見つめていると視界に青年の足がうつった。いつの間にか、わたしの正面に立っていたらしい。


「行きましょうか」
「………どこへ」
「彼が眠る場所へ」
「………」
「今度はあなたがあなた自身の口から彼に伝える番です」


さあ、行きましょう
そう言って左手を差し伸べた青年の顔には相変わらず綺麗な笑顔が張り付いていた。




君は泣いたように笑った


その笑顔はまるで、泣いているよう

090115