ヒトの心ってのはコップのようなもんだ。その器に感情という水が注がれて、それを理性という表面張力で零すまいとする。けれど、そこに1滴の水を垂らすとどうだろう。コップに注がれた水はたちまち表面張力を失って溢れてしまう。

まだ、あたしの心は溢れる一歩手前でなんとかとどまっている。





「いいよ、後はあたしがやっとくから。早くクラブ行きなよ」
「そんなワケにはいかねぇだろ」

あたしの申し出を断って、彼は日誌の続きを書き始めた。場所は夕焼けによって真っ赤に染められた教室。外からサッカー部の掛け声が聞こえてくる。

「なあ」
「なに?」
「お前、好きなヤツとかいねぇの?」
「は、」


なんでいきなりそんな話?
咄嗟に返答に詰まる。いるけど、それを言っていいものか。だって、ソレはまさに今私の目の前にいる人なのだから。

「………」
「いんの?」
「まあ…」

チラリ、と阿部の顔を盗み見る。別段驚いた様子もなく、「ふーん」とだけ呟いた彼の日誌を書く手は休まることはなかった。やっぱりなんとも思われてないのかな。ただの気紛れで尋ねてきたのかな。そんな考えが脳裏を巡る。

「告んねぇの?」
「なんで」
「なんとなく」

“なんとなく”で告白を好きな人に勧められるなんて、どんなに惨めなことだろうか。やっぱり阿部はあたしのことなんかなんとも思っていなかった。想像が確信へと変わる。

「………告ればいいじゃん」
「ヤダよ。絶対ムリ」
「…お前ならいけるって」

“お前ならいけるって”
その一言が私の心に雫となって、落ちてきた。ああ、もう表面張力は利かない。
ガタン、と大きな音を起てて椅子から立ったあたしを吃驚した様子で見上げる阿部。普段は見上げてるあたしが、今は阿部を見下ろしているのがなんだか可笑しい。
何も喋らない私を不審に思ったのだろうか、阿部も不服そうな顔をして立ち上がった。これで、いつも通りあたしが彼を見上げることになる。

「ンだよ、急に」
「………。」
「なんか気に触った?」

阿部が怒ったような、けれど少し不安そうな顔をして尋ねてきた。
そんなどっちつかずな阿部の表情に気付かないフリをして、正面に立つ。ジッと目を見つめると、彼は気まずそうに「なんだよ」と呟いた。

「阿部はホントに鈍いよね」
「ハァ?意味分かん」

ねぇよ、とおそらく続くハズだった阿部のことばを無視して、制服の首もとを引っ張る。一瞬だけ彼の目線と私の目線が同じ高さになった。


「こーゆー意味。」


そう言って私はまだ何か喋りたそうな彼の口を言葉ごと塞いだ。すぐ近くに目を見開く阿部の顔がある。

「意味、分かった?」

彼の制服を離したら、いつも通りになる目線。少しだけ、ほんの少しだけ手を伸ばせば届く位置に、今まで1度も見たことがないぐらい呆けた表情をした阿部がいる。

「ごめんね。忘れていいから」

何か言いたそうな顔をした阿部の口から出て来る言葉を聞くのが怖くて、急いで教室をあとにした。
気付けば、教室を包んでいた赤は沈んで辺りは真っ暗になっていた。




零れたスピカ


あーあ、やっちゃったなぁ。

090608