06
車を駐車場に止め、出版社のエントランスで真琴は美優を待っていた。
時計の針は19時を少し回ったところだ。
早く、と心の中で急かしながら、落ち着きなく時計に視線を落とす。
「お待たせ」
コツ、コツ、というハイヒールの奏でる音が目の前で止まり、美優が現れた。
シンプルながらも綺麗なシルエットとその作りから素材の良さが伺える黒いワンピース姿の彼女を前にし、真琴は息を飲んだ。
やっぱり、違う。
その辺にいるような女の子とは、全然違う。
私生活はぐちゃぐちゃで一人では何もできなくて、俺がいないとダメなような顔をして、でもやっぱりちゃんと大人で、俺なんか全然敵わなくて、きらびやかな場所が似合う遠い世界の人で、…手を伸ばしたって届かない。
大人はズルイ。
「真琴?どうかした?」
言葉も発さずにただ佇む真琴を不思議に思ったのか、顔を覗き込むように見つめる。
美優の瞳の中に映る自分があまりにも間抜けな顔をしていて、はっと我に返った。
「…なんだか今日の美優さん、一段と綺麗だなって……あっ、いや、その!なんというか、雰囲気が違う、ような…っ」
思っていたことがポロリと口から滑り、慌てて弁解するが、その言葉はしっかりと彼女の耳に届いてしまった。
美優は不意に言われた言葉に一瞬きょとんと無防備な表情を晒す。
だがすぐに目を細め、紅いルージュで彩られた唇に弧を描いて妖艶に微笑んだ。
「今は、外の顔だからね。いわゆるお仕事モードってやつ。真琴の前ではいつも無防備な姿でいるから……普段の姿は、外ではナイショね」
華奢な指を軽く唇に添え、小首を傾げる姿は、いつもの彼女からは想像できない。
外に用事の無い時は化粧もせず、あどけない顔をして一日中部屋着で過ごすこともあるし、締め切り前はいつも眠そうな目をして、全ての生活を真琴に委ねている。
"お仕事モード"の彼女はしっかり化粧をし、髪型にも気を遣い、身に付けるものは全て上質。その立ち居振る舞いも優雅で、自信に満ち溢れた大人の女性そのものだった。一片の隙も伺えない。
エントランスを出入りする人々の視線は彼女に注がれ、まるでスポットライトを浴びているかのような存在感を放っていた。
ただの学生である自分が側にいられるような人ではない。そう痛感させられた。
だが、誰も知らない本当の彼女を知っている。そんな優越感を得ているのも事実だった。
外での彼女が完璧であればあるほど、本当の彼女とのギャップが大きくなればなるほど、満たされる。
劣等感と優越感という相反する感情が真琴の心の中に燻っていた。
「じゃあ、行きましょ」
***
大学から帰って特に準備もせずにそのまま迎えに来ため、シンプルなシャツにカーディガン、チノパンというカジュアルな服装の真琴は、どんな店に連れて行かれるのかと身構えた。だが着いた先はなんてこともない、見知ったチェーンの居酒屋だった。
「真琴は未成年だから飲んじゃダメ」
と釘を刺されたが、どっちみち車を運転するため飲めない。
未成年の大学生が飲酒、だなんて、法律で禁じられてはいるものの、昨今珍しいことでもない。彼女は一見緩そうに見える(実際緩い部分も多い)が、こういうところは意外としっかりしている。「飲んでもいい?」はい、どうぞ。一応、居酒屋という空間で飲酒を許されない立場の真琴を気遣ってそう尋ねるが、すでに美優はおしぼりを持ってきた店員に生ビールを注文していた。
若者で賑わい「ハイよろこんでー」という間延びした店員の声が響く雑多な空間の中で美優は浮いていた。
だが綺麗に彩られた指先でメニューを辿りつまみを吟味する姿はまさに真剣で、そのギャップに真琴はつい吹き出してしまった。
「なあに」
「っ…あまりにも美優さんが真剣な顔でメニューを見てるから、なんだかおかしくて」
「久々にこういうお店来たけど、私が学生の頃よりも美味しそうなメニューがいっぱいあってびっくりしちゃったの。選べないじゃない」
「美優さんが学生の頃って言っても、数年前じゃないですか。そんなに変わります?」
「うん。違う。なにこのカルボナーラうどんって……食べるしかない」
「まずはおつまみ頼みましょう?」
「そうだね、これは〆に取っておく。おねーさん、たこわさとお刺身盛合せお願いします。真琴は?食べたいものあったら好きなの頼んで」
「じゃあ豚平焼きと串揚げ盛合せください」
美優は「チョイスが男の子だねー」なんて感想を述べて、運ばれてきたジョッキを持つ。真琴は烏龍茶の入ったジョッキを持ち、どちらともなく「乾杯」。
「真琴は大学の友達とこういうお店来るの?」
「たまに行きますけど、飲み会はほとんど参加しませんね」
「私が学生の時、男の子は飲み会大好きでみんな毎週何かしら理由作って飲んでたけどなあ。……やっぱりそれって私のせい?遠慮しないでもっと遊んでいいんだよ?」
真琴は美優が何を言いたいのか理解した。
自分の世話をしているせいで友達付き合いができていないんじゃないか、我慢しているんじゃないか。それが気になるらしい。
もう美優は真琴がいないと生活を上手く回せないだろうし、普段は気にも留めてないように振舞っているのに、そんなことを気にしていたのかと思うと、愛おしい。
「違いますよ。俺が好きでそうしてるんです。上辺だけ取り繕ってわいわい騒ぐのはあまり好きじゃないし、ちゃんと仲の良い友達もいますから。それに今更美優さん放っておいて遊んだりしたら、それこそ気になって楽しめないでしょうから」
「それなら良いんだけど……って、なにそれ。私がダメな人間みたいじゃない」
「…ダメな人間じゃないと困ります」
「……は?」
美優さんが全て完璧にこなせる人間だったら、俺が側にいる理由が無くなってしまうでしょう?
とは口に出さず、その言葉はそっと胸にしまった。
「でも心配になるので、ダメになるのは俺の前だけにしてくださいね」
「………言われなくても。外では私、ちゃんとしてますから」
「確かに。今日はびっくりしましたよ」
「アレ、異常にエネルギー使うの。だから家では温存しないと。それに普段は真琴が甘やかしてくれるから、つい、甘えちゃう」
無防備な姿を晒すのは意識されていないからだと思ってたが、あれは彼女なりに甘えていたのだと思うと急に胸が苦しくなった。
「美優さん…!……俺、もっと頑張りますから、もっと頼ってください…!」
「…うん、それはありがたいけど。…真琴が頑張れば頑張るほど私の生活能力が失われていく気がする」
「じゃあ……」
ずっと側にいます。という言葉が口から出かけて、思わず飲み込んだ。
このタイミングで言っても、冗談として片付けられてしまいそうな気がした。
「じゃあ?」
「…適度に、頑張ります」
「ふふっ、そうして。私も適度にお仕事頑張るから。それで、適度に暇な時間は遊びましょう?人生楽しまないとね」
そう言って完璧なウインクを披露した彼女は、心底人生を楽しんでいるのだろう。
2014.1.22