03
渡された車のキーには見知った馬のマークが刻印されていた。
「た、確かにマニュアル車運転できますけど、外車なんて、しかもスポーツカーなんて運転したことどころか見たこともないですよ!?」
「どうせ貰い物だしガンガンぶつけちゃっていいから。あ、自動車保険は真琴の名義で入り直しておいてね」
「そういう問題じゃなくて、」
「…じゃあ新しい車買おうか?」
「は!?…いや、それは、」
「もー、真琴ったら文句ばっかり。送り迎えさえちゃんとしてくれれば何でもいいけどさあ。…あ、それからこのカード使って。生活費とか、必要な物があったらこれ使って買っていいから」
「ブ、ブラックカード…?」
「んー、でも大学生なら現金も必要だよね?お給料は月10万あれば足りる?」
それは、ブラックカード+現金10万円を自由に使っていいということなのだろうか。
お金は多いに越したことはない。
だが真琴は美優のこの浮世離れした感覚に眩暈がした。
「っ…美優さん!今までどういう生活してたんですか…!」
「どうって言われても……自由気ままに」
「月々の収支は?」
「考えたこともない」
もしかして俺は、とんでもない人の面倒を見ることになってしまったんじゃ…
真琴は自分の顔色が青くなるのを感じながらも、なんとか平常心を保とうとしていた。
「…わかりました、俺がこれからちゃんと管理しますから。なんだか美優さん、危なっかしくて見ていられないです」
「…何か引っかかるけど、まあいいや。私は仕事に集中する代わりに他のことは全部真琴に任せるから。あ、でももちろん大学優先でいいよ」
昨日の夜は寝つきが悪く、7時に目覚ましをセットしたにも関わらず真琴が目を覚ましたのは10時を回ってからだった。
まだ家主にちゃんと挨拶もしていないのに初日からだらけるわけにもいかず、慌てて飛び起きたのだが、家主はまだ起きていなかった。
女性の部屋に勝手に入って起こすのもどうかと思って、とりあえず着替えて顔を洗い、昨日頼まれていた服をマンション内に入っているクリーニング屋に持って行き、部屋にまた戻ってきたところで寝起きの家主と鉢合わせした。
またろくに挨拶もできないまま「コーヒー淹れて」と頼まれ、インスタントしか淹れたことが無い旨を伝えると淹れ方をみっちり仕込まれた。
自分で豆から挽いて淹れたコーヒーを味わいつつ車や家のことなど説明を受けるが、時折噛み合わなくなる会話に真琴は頭が痛くなるのを感じた。
それでも会話の端々で彼女の頭の回転の速さや、センスの良さ、何とも言えない魅力を感じざるを得なかった。
ただ、圧倒的に常識が足りない。一般の感覚とどこかズレている。
さすが作家というべきか。
今までとはまったく違う生活が始まるんだなあ、とぼんやりと考えていると、チンッとトースターが鳴った。
真琴は慌ててキッチンへ向かい、きつね色に焼けたトーストをお皿に乗せ、冷蔵庫から取り出したバターと共にダイニングテーブルに運ぶ。
「……これだけ?」
「冷蔵庫に食材が何も入ってなかったので作ろうと思っても作れないんですよ…!今までちゃんとご飯食べてたんですか?」
「締め切り前は食べるの忘れちゃうんだよね…あとは、ほとんど外食」
「そんなんじゃ身体壊しますよ!後で買い物行って来ますから、これからはちゃんとご飯食べましょう」
「真琴、料理できないんじゃないの?」
「レシピ見ながらやれば多分、大丈夫です」
「じゃあ期待してる」
美優はトーストにバターを塗ると、一口噛り付いた。
「美味しい」
「ただのトーストですけど…」
「誰かが自分のために用意してくれたものって特別に美味しいの。今まで食べたどのトーストよりも美味しい。ありがとう、真琴」
そう言って嬉しそうに顔を綻ばせた美優に、真琴は目を奪われた。
きっと、俺はこの人のことを好きになる。
そんな予感が、した。
2013.11.19