自分に負けないで?


翌週の授業で使う資料を作り終えた綾は、一息つこうとキッチンへ向かう。
キッチンにはまだ少し髪を湿らせた風呂上りの遙がいて、今まさに冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出したところだった。



「姉さん」


「ありがとう、ハル」


綾が声をかける前に、遙は麦茶をグラスに注いで手渡した。
それを受け取り、半分ほど飲むとグラスをテーブルに置き、ここ最近あまり会話をしていなかった弟を見つめる。
久しぶりに見つめた弟は少し前よりも大人びたような気がした。
この年齢の男の子は少し目を離した隙に、どんどん成長していく。


私を置いて、どんどん先へ進んで行く。



「フリーの100」


「ハル?」


「明日の県大会で、俺はフリーの100を泳ぐ。……凛と勝負する」



唐突に喋り始めた遙の瞳があまりにも真剣で、綾は何と返事をすれば良いのか分からなくなってしまった。
ワンテンポ置いて絞り出したのは「……そう」の一言。自分がとても情けなく感じた。



「明日、俺は凛と泳いで、自由になる」



動揺する綾を他所に、遙ははっきりと言い放った。



「………ねえ、ハル。もうみんなはさ、昔みたいに戻れないのかな?」


「……わからない。でも、俺は、明日……、姉さんに見届けて欲しいんだ。他の誰でもなく、姉さんに」


「うん、わかった。大会は見に行く。でも、よく考えて。ハルが泳ぐ意味を。何のために泳ぐのかを」


「それは、姉さ…」


「違ったはずだよ。少なくとも、あの頃のハルたちは。思い出してほしいの。ハルの本当の気持ちを…」



きらきらと輝く瞳。絶えない笑い声。きっとあの頃のあなたたちの世界は、今とは違っていたはず。


人は成長して、変わっていく。
それでも、変わらずに持ち続けていて欲しいものがある。
それを無くさないで欲しい。忘れないで欲しい。思い出して欲しい。



遙が綾に依存するようになったのは、きっとその大切なものが零れ落ちてしまったから。
それを取り戻すタイミングは、今しかない。
綾は漠然とそう感じていた。
そしてそれに気付き、取り戻すのは、遙自身でなければならない。


私にできるのは、ここまで。



「明日は早いんでしょ?もう寝なさい」


「………おやすみ、姉さん」


「おやすみ、ハル」



澄んだ青い瞳が揺れるのには気付かない振りをして、綾はキッチンを後にした。










***





遙は凛に負けた。







帽子を目深に被り、日傘にサングラス。
鮫柄学園の生徒に出会っても気付かれないような恰好で、鮫柄の生徒や岩鳶の関係者たちとは離れた場所から綾は二人を見守っていた。



「ハル!俺の勝ちだ。これでもうお前と泳ぐことはねえ。……二度とな」



それなのに、そう言い放った凛はその後、確かに綾のことを見た。
誇らしげな表情で「俺は勝ったんだ」と伝えるかのように。








フリーの100mが終わり、しばらく経っても遙は真琴たちの元に戻って来ていないようだった。


遠目からでも、遙がショックを受けている様子が伺えた。
探して、優しい言葉をかけることはいくらだってできる。
でも綾はあえてそうしなかった。遙は今彼が感じているであろう感情の答えを、自分で探さなければならない。


彼は、もう子供じゃない。
きっと自分で乗り越えられる。


そう信じて、綾は会場を出た。

(信じてるよ)

2014.02.10

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