言えなくてごめんね?
「七瀬先生、今日はもう帰られますか?もしよろしければ一緒に食事でも…どうですかね?」
「あ、山河先生…」
「近くに美味い店があるんですよ!」
非常に困った。
5限が終わり、準備室で小テストの採点をし、そろそろ帰ろうと思い荷物を取りに職員室に向かっていた綾は、廊下で体育教師の山河に遭遇した。
鮫柄に来たばかりの頃は校舎を案内してくれたり、荷物を運ぶのを手伝ってくれたりと、とても親切な人だな…と思っていたのだが、それは下心があってのことだったらしい。
最近はプライベートな質問をされたり、こうして食事に誘われたりしている。
何度も断っているのだが、ポジティブなのかそれとも単に鈍感なのか分からないが、めげずに何度も誘ってくる。
今もこちらの返事を聞かないまま「あの店は寄せ豆腐が美味いんで、きっと七瀬先生も気に入りますよ!」と勝手に一人で盛り上がり、なんとも断りにくい。
綾がどうしようかと思案していると、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「…七瀬先生こんなところにいたんすか。待ってるんで早くしてください」
「…りっ………ま、松岡くん」
「今日の放課後、英語教えてくれる約束してましたよね?」
そんな約束はしていないが、きっと凛は助けてくれようとしている。そう思った綾はとっさに凛の話に合わせることにした。
「あ…そうだったわ。ごめんなさい、小テストの採点をしてたらすっかり忘れてて……」
「松岡、お前帰国子女だろ?なんで今更英語なんて…」
「あー…俺じゃなくて、他の水泳部員。次のテスト、赤点取ったら大会出られなくなるんで。レギュラーだけ特別補習頼んでたんですよ」
「そういうことでして…すみません、山河先生。今日は失礼しますね」
「…それなら仕方ないですね。この話はまた今度」
また今度なんてねぇよ。凛は心の中でそう毒づきながら、ポケットに手を入れ、早足で廊下を歩いて山河の元を去った。
「ちょっと…待って、……待ってってばっ…!」
後ろから追いかけてきた綾が、凛の腕を掴む。
「…んだよ」
「助けてくれたんだよね?…ありがとう」
「別に……つーかお前、隙ありすぎ。あんな奴に好かれてバカじゃねーの」
「別に好かれてなんか…」
「好かれてるだろ。どいつもこいつもお前の話ばっかり……いい加減うんざりなんだよ!クラスの奴らも、お前のことやらしい目で見て、下世話な話のネタにして、俺がどんな気持ちでいると思う?なんでこんなところに来たんだよ…っ…これ以上余計な奴らとお前を関わらせたくねぇんだよ…っ!」
感情的になった凛は懇願するような目で綾を見つめながら、その華奢な肩を掴んだ。
「なぁ、綾…」
「松岡くん、ここ、学校」
「っ…なんで、俺を遠ざけようとするんだよ?俺がガキだからか?あの頃とは違う、俺は、」
「…松岡くん」
「今度の大会で俺はハルに勝つ…そしたら、俺とー…」
「……凛っ!」
名前を呼ぶと、凛は目を見開いて、一瞬息を飲み、我に返った。
「確かにあなたは身長も伸びて、声も低くなって、大人になってる。でもやっぱりまだ子供だよ。一番大切なこと、わかってない」
「っ…何が…何が足りない?俺は、どうしたら」
「それは、自分で考えて。……でも一つ言えるのはー…私は、あの頃の…みんなと一緒にいた時の凛の方が好き」
みんな、大人になっていく。
その途中で少し方向を間違えることだってある。
でも、きっと凛も、ハルも、また同じ方向を向いて一緒に進んで行く。
綾はそう信じていた。
「っ……わっかんねぇよ……!」
「…きっと、すぐに分かるよ。だからそれまでは……」
「……今の俺じゃ、駄目なんだな?」
凛の問い掛けに、ゆっくりと頷く。
「………でも、可能性はあるって思ってていいんだな?」
真剣な眼差しの凛から逃れることが出来ず、でも頷くこともできない綾はただ曖昧に微笑んだ。
「とにかく、今の私はこれ以上何も言えない。ごめんね………"松岡くん"」
教師と生徒という今の立場を揺るがすことはできない。
でも、それが無くなれば……
凛は綾の後姿を眺めながら、自分の手を握り締めた。
(今はまだ、その時じゃない)
2013.11.6
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