目移りしないで?
『ねえ、凛。もっと自分を信じて。あなたにはちゃんと帰る場所も、待ってる人もいるじゃない。だから思いっきりぶつかってきなさい。何をするためにオーストラリアに来たの?目的を見失っちゃダメ。今は辛くても、きっとわかる日が来るから…だからね、凛ー………』
「っ……!!!!」
甘く優しい香り、柔らかい身体。
あの時の記憶が一気に蘇った。
だが、最後に彼女が何と言っていたのかどうしても思い出せない。
「クソっ……なんでここで覚めるんだよ……」
その言葉にあの時の自分が救われたことは確かなのに。
「…松岡先輩?おはようございます。どうかしましたか…?」
「……チッ、なんでもねぇよ」
思い出に浸っているところを同室の後輩に話し掛けられ、機嫌が悪いことも隠そうとせず、凛は乱暴にベッドから起き上がった。
「…あ!そういえば二年生の英語の先生、美人だって一年生の間でも噂になっててー…」
「似鳥、黙れ」
険悪な空気を変えようと話題を振ったが、それは逆効果だった。
似鳥が「す、すみません!」と勢い良く謝る姿も見ず、凛はスポーツタオルを首に巻き、部屋から出て行った。
綾が鮫柄に来てからもう数週間が経つというのに、学内は未だに彼女の話題で持ちきりだった。
授業以外で全く接点を持てず、廊下で見かけてもいつも他の生徒に囲まれていて二人で話すこともできない。
凛はその状況に苛立ちを隠せなかった。
せっかくまた会えたのに。
あの時とは違う、成長した自分を見せられると思っていたのに。
綾にキスをしたことは後悔していない。
もしそれが理由で綾が自分を避けているのだとしたら、
「俺のこと、意識してんじゃねぇか…」
それは凛にとって喜ばしいことだった。
オーストラリアにいた頃にはもう凛は綾に好意を抱いていたが、綾の方は凛に"可愛い弟"というような感情しか抱いていないようだった。
なんとか男として意識させようと行動したが、上手くあしらわれていたように思う。
でも今はあの頃よりも身長は伸び、筋肉も付き、声は低くなり、顔立ちも大人びた。
もう俺は子供じゃない。
めそめそ泣いたりしない。
綾の側にいられるくらい、俺は強くなる。
そのために、
「俺はハルに勝つ」
凛は冷たい水で顔を洗い、スポーツタオルで拭うと、そのまま寮を出て日課のロードワークを始める。
その鋭い瞳はぶれることなく真っ直ぐと前を見据えていた。
(誰にも譲れない)
2013.10.21
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