ちゃんと向き合おう?
「はじめまして。七瀬綾です。宮間先生が産休の間、皆さんの英語を担当します。よろしくお願いします」
そう和かに喋ると、教室は沸き立った。
男子校である鮫柄学園の中で、若い女性の教師というのは思っていた以上に目立つらしい。
年頃の男子高校生たちは若く整った顔立ちの綾を前に興奮を隠そうともせず、目配せをしたり、落ち着きなく騒ぎ立てた。
「先生質問です!彼氏いますか?」
「さあどうでしょう」
「綾ちゃんって呼んでもいいですかー!」
「先生って呼んでくれた方が嬉しいな」
「英語のテストで満点取れたら俺と付き合ってくださーい!」
「それだけ頭が良ければもっと素敵な女性とお付き合いできると思うよ」
「綾先生の好きなタイプは!?」
「しっかり授業を聞いてくれる人かな。……というわけで、そろそろ授業をはじめます」
男子高校生の野次を軽くいなしながら、綾はチョークを握った。
遙や真琴、凛と同い年のはずなのに、この教室にいる生徒たちがやけに幼く見えてしまうのは何故だろうか。
野次に参加することなく頬杖をついて面白くなさそうにこちらを見つめる凛の視線を背中に感じながら、黒板にチョークを滑らせる。
「はい、では教科書の32ページからね。この分詞構文を使った例文を……松岡くん、読んで訳してみようか?」
「……は?」
まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったのか、凛は一瞬目を見開いて驚いたような表情を見せたが、小さく舌打ちをすると、ゆっくり立ち上がった。
「Written in plain English, this book is easy to understand.……簡単な英語で書かれているので、この本は理解しやすい」
「発音も訳も完璧ね。ありがとう、座って。………これは原因や理由を表す分詞構文で、『Being + 過去分詞』『Being + 形容詞』のように、Being が文頭に来る場合は普通Being を省略します。この例文の場合は〜…」
何事も無かったように授業は進んでいく。
この二人の間の違和感に気付いた生徒はきっといないだろう。
綾は凛にキスをされて、動揺してしまった自分を恥じていた。
高校生だからだとかそういうことが問題ではない。年下とは言えちゃんと一人前の男性として認識しているつもりだった。だからこそ、キスをされてしまうような隙を見せたことに困惑していた。
そういう隙があるから、遙も自分を求めようとするのだろうか。
遙も、真琴も、渚も、凛も、みんな魅力的な男性に成長していると思う。
誰だって魅力的な男性に好意を持たれて嫌な気分はしない。
でもそこに溺れてしまったら取り返しのつかないことになってしまうことは分かっていた。
私は大人なんだ。そう自分に言い聞かせ、教師という仮面を被って教壇に立ち、凛と向き合っている。そうすることで、自分のバランスを取ろうとしていた。
***
「ただいま〜」
非常勤講師であるため、自分の受け持つ授業が終われば比較的早く帰ることができる。
「お帰り、姉さん」
「お帰りなさい」
「真琴くんいらっしゃい。今日は部活なかったの?」
返事が返ってくるとは思わず、嬉しい誤算に頬が弛むのを感じた。
声がしたリビングに向かえば、遙と真琴がくつろいでいる。
「明日は小テストがあるから、ハルと勉強してたんだ」
「偉いね〜!どれどれ…英語?分からないとこがあったら教えるから言ってね」
「ありがとう。あ…そういえば綾さん、今日から授業始まったんだっけ?」
「そうそう。初っ端から凛のクラスだったからびっくりしちゃった」
綾の口から凛の名前が出た途端、遙が分かりやすく反応を示した。
「あそこではただの非常勤講師と生徒だから、授業以外で個人的に喋ったりはしないけど…やっぱりちょっとやりにくいよね。……それにしても高校二年生って思ってたより幼くてびっくりしちゃった!ハルや真琴くんが大人っぽいから余計にそう思っちゃうのかな?」
あまり遙を刺激したくない綾がそれとなく話題を変えたのを真琴は察し、それに便乗することにした。
彼も最近の遙の様子がおかしいこに気付いていて、その原因が綾と凛に関係することではないかと考えていたのだ。そして今の状況で、予想は確信に変わった。
「俺たち大人っぽいかな?……どう思う?ハル」
「………姉さん。凛と、何があったんだ」
「!?お、おいハルっ…!」
せっかく凛のことから話を逸らそうとしたのに!そんな叫びが聞こえてきそうなくらい慌てる真琴を尻目に、遙は落ち着いた面持ちで綾を見つめている。
「え…っと、何って言われてもな………私がオーストラリアに行った時、凛はちょうど大きな壁にぶつかってて、色々なことを諦めようとしてたの。それで……ちょっとだけ背中を押した、のかな。ただそれだけ」
綾が"ちょっと"と思っていることが、凛にとっては大きなことで、きっとそれによって当時の彼が救われたということが遙には容易に想像できた。
遙自身、そうやって何度も綾に助けられてきたのだ。
「ただそれだけ、じゃない」
「…ハル?」
「姉さんはわかってない。自分がどれだけ人に影響を与えてるのか、全然わかってない……俺だって、姉さんにー……っ」
遙は無意識なのか、手に持っていたシャープペンシルを強く握りしめ、何かに耐えるかのように小さく震えながら俯いていた。
「ハル、綾さん困ってるよ。……ちょっと落ち着いて」
真琴が遙の手を優しく掴み、その手から力が抜けたのを確認すると、シャープペンシルを抜き取りテーブルの上に置いた。
「……ごめん」
遙の口から零れた謝罪は、真琴に向けられたものか、綾に向けられたものかは分からないが、ゆっくりと顔を上げた遙の瞳は不安に揺れていた。
まるで「嫌いにならないで」と訴えかけるかのように。
「ねえ、ハル。前にも言ったかもしれないけど、私はそんなに出来た人間じゃない。ハルが見てる私と、私が自分で認識してる私はきっと、別人。でもね、たった一人の弟にとって私が良いお姉ちゃんでいられるのはすごく嬉しいな。………これからもずっと、『良いお姉ちゃん』でいさせてくれる?」
それは、遙にとって最もつらい言葉だった。
昔は側に居られるだけで幸せだったのに、今は血の繋がりがあることが、こんなにも苦しい。
だが、綾も遙と同じように苦しみ、傷ついていた。
弟を傷つけてしまうことを分かっていながら、あえてそうしている自分を許せなかった。
涙で潤みそうになる瞳を細め、無理やり笑顔を保ちながら、『姉』としての責務を全うしようとする綾の姿を見て、遙は何も言うことができず、ただ、ゆっくりと頷いた。
「…よかった。ありがとう、ハル。………あーあ、なんだか今日は疲れちゃったみたい!自分の部屋で休んでるね。真琴くん、ゆっくりしていってね。………ハルを、よろしく」
綾は表情を隠すように大きく伸びをし、努めて明るい声を出すと、遙と真琴に背を向けて自分の部屋へ向かった。
真琴は様子を伺うように遙を見るが、俯いた顔は髪が影になり、その表情は分からなかった。
「なあ、真琴。どうして俺と姉さんは……姉弟なんだ…っ……」
遙の悲痛な声が、二人きりのリビングの中でやけに大きく響いた。
真琴はその問い掛けに答えることができなかった。
(一番近くて、一番遠い)
2013.10.18
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