「美智さん」



そう何気なく呼ぶと、彼女はただでさえ大きな瞳を見開きながらこちらを振り向いた。
いつも落ち着いた立ち居振る舞いの彼女にしては珍しい動作で、思わずこちらまで目を見開いてしまいそうになった。



「どうかしました?」


「いえ…グソンさんが初めて私の名前を呼んでくださったので、少し驚いちゃいました」



はて、そうだったか。


思い返してみると確かに俺は彼女のことを『お嬢さん』だとか、そういった呼称で呼ぶことが多い。

それは彼女が槙島さんのお気に入りであり、そんな彼女と俺が親しげに言葉を交わせば彼の機嫌を損ねてしまうことは想像に難くなく、無意識に避けていたというところか。

槙島さんは以前俺に「彼女とゆっくり話してみるといい」と確かに言った。
だがその機会が訪れる前に槙島さんは彼女を籠の中の鳥のように盲目的に愛で始め、誰一人入り込むことができないような二人だけの世界を築き始めた。

彼はそんな子供染みた独占欲を露わにするような男だっただろうか。
彼女は彼の中の非理性的な部分を引き出すほどの何かを持ち合わせているのだろうか。



それは、ただの興味だった。



「嫌…ですか?」


「まさか!…なんだか認めて頂いたような気がして、嬉しいです」



グソンさん、私のことずっと警戒してましたよね?



微笑みさえ浮かべながらそう言ってのける彼女からはやはり底知れぬ何かを感じずにはいられない。



「まいったな。ポーカーフェイスは得意なはずだったのですが」


「…私の存在が、貴方がたの目的達成の妨げになるとお思いですか?」



その澄んだ瞳でじっと見つめられると、心の中を見透かされているような気にさえなる。そんなはずはないと言うのに。



「目的…とは?」


「そこまでは私にはわかりません。でも、槙島さんが何か大きなことをやろうとしていて、グソンさんはそれを一緒に成し遂げたいと思っている。…きっとそれは、この国を変えてしまうようなこと…じゃないかなって思ってるんですけど」


「……それを、貴女はどう思っているんですか」



俺は彼女の言葉を肯定も否定もしない。そして彼女もそれを望んではいない。



「それが良いことなのか、悪いことなのか、わかりません。この世界に来て槙島さんにぐずぐずに甘やかされて、砂糖漬けにされてしまった私はもう正常な判断ができない。私の世界には槙島さんしかいなくて、そんな私を槙島さんは籠の中で大事に大事に扱ってくれる…だから槙島さんや貴方が何をしようと、私はできるだけ良い声でさえずりながら籠の中で見てることしかできない」



彼女は自分の知らない世界で、誰かに依存しながら生きていくことしかできないのだ。
きっと本来なら他人に依存せずに、自分の力で生きていける強い人間なのだろう。
だからこそ、"未来にいる"という有り得ない状況下で生きて行くための最善の方法を理解し、身を委ねている。

槙島さんへの感情も、ストックホルム症候群のようなものだと理解して、その上で受け入れて。


なるほど、この娘は賢く、唯一無二の存在であることは確かなようだ。
だが見目はその内面に対して繊細すぎる。
白い肌、薔薇色の頬、艶やかな髪、澄んだ瞳。まるでガラス細工のようで、その内面と外面のアンバランスさが彼女の独特な雰囲気をつくりだしているようだった。

彼女の無言の微笑みは、人を圧倒させる何かを孕んでいる。



囚われているのは槙島さんや、俺の方だったのだろうか。


そう、籠の中の鳥に囚われた人間が、二人。




「お嬢さん、」


「…もう、名前で呼んでくださらないのですね」



彼女は悲しげに微笑み、ぽつりと言葉を漏らす。


俺はそれに応えるかのように、跪き、その陶器のように滑らかな手を取り、口付けを落とした。

(貴女と対等な立場でいることはできないと気付いてしまった)

2013/6/17
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槙島がやろうとしていることを察し始めたが、達観している彼女は鳥籠の中から逃れることは不可能だと理解しています。
ただ愛でられて喜んでるだけのお人形さんじゃないよ、というお話でした。
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