はらり、と黒く艶めく髪が一房、また一房と白く滑らかな肌を滑り落ちて行く。

段々と露わになる白く細い首筋を前に、槙島は手を止めて愛用の剃刀を見つめる。

一瞬。

一瞬もあればこの目の前の美しい少女の時を永遠に止めることができる。
簡単なことだ。
この娘は彼に信頼を置いて全てを委ねている。
髪に当てていた剃刀を彼女の細い首筋に添え、横に引けばいい。大した力も必要ない。
そうすればこの白い肌は紅く染まり、薔薇色の頬は血の気が引いて青白く、穏やかな表情は…恐怖に染まる暇もなく、その命を散らすだろう。
彼女はそれほどまでに儚い存在で、今こうしてここに存在していることが奇跡のようで。

この剃刀でいくつもの命を散らしてきた。どの命も取るに足りないもので、彼にとってはどうでもいいものだった。
だが彼女ー…美智はそうではない。今まで出会ったどの人間よりも尊い。だからこそ今まで花を愛でるかのごとく大事に大事に扱ってきた。

まだその花を摘む時期ではない。



「槙島さん?」


「ああ…ごめんよ。やはり君のこの美しく長い髪を切ってしまうのは勿体無い気がしてしまってね」



槙島はまだ切り揃えられていない長い房を手に取り、優しく口付けた。



「何をおっしゃるんですか。切ってくださるって言ったのは槙島さんですよ?」



困ったように眉を下げる彼女はとても可愛らしく、そしていかにも血の通った人間らしさが感じられる。
槙島は満足気に頷き、剃刀を持ち直した。



「そうだったね…では続けよう。前を向いて」



彼がそう言うと、彼女は大人しく正面を見据えた。

そんな生真面目な彼女に対してちょっとした悪戯心が湧いた槙島は、彼女の無防備な首筋に唇を押し当てる。



「ひゃっ…!」


「危ないよ…動かないで」



わざとらしく甘い声を使って耳元で囁けば、彼女はぷるぷると震えながら必死に耐えた。



「そう、いい子だ」



ちゅ、と音を立てて白い首筋に赤い花弁を散らす。
「ん…」と弱々しい声を出しながら耐える彼女の姿が愛おしく、花弁に唇を添えるとそれを味わうようにぺろりと一舐めした。

甘い。



「…槙島さん、痕…見えちゃいます」



ああ、そうだ。彼女の長い髪は切ってしまったのだ。その痕を隠す術はもう無い。



「ここには僕と君しかいない」


「…お客様が来るじゃないですか」



泉宮寺、チェ・グソン、その他にもこの屋敷に出入りする者がいる。
無論、誰の目にも触れないように彼女を隠してしまうことは簡単だ。
事実槙島は彼女を自分の元に閉じ込めてしまおうと何度も考えはしたが、それを実行しようなどというほど愚かではない。



「陽の目を見ないまま君を鳥籠で飼い殺すような真似はしたくないんだ。誰の目にも触れないようにすることはいくらでもできるが、そんなことをしては君の輝きは薄れてしまうだろう?…いや、こんな弁解は無意味だな。正直に言うと、君が僕のものであると皆に見せびらかしたいだけかもしれない。…子供っぽい独占欲だと君は笑うかい?」



美智は何故そこまで彼が自分に執着するのか理解できなかった。この美しい青年にここまで想われる価値が自分にあるとはどうしても思えなかった。
生まれた世では平々凡々な生活を送ってきたが、その中で育まれてきたこれまた平凡な価値観というものはこの世界では稀有なものらしい。
ありきたりな日常もこの平凡な人格も、彼に語れば語るほど意味をもち、今までに見たこともないような鮮やかに色付いていく。
そうやって磨かれ、今までの平凡な殻は破られ、この世界でより一層の輝きを放つ。

彼からの賛辞を受ける度、彼からの愛を感じる度、その感覚は強くなっていく。



「…いいえ、槙島さんからそんな風に思って頂いてとても嬉しいです」



だが彼女は決して驕らない。
そんな思慮深さも彼を唸らせ、興味を惹かせる一因だった。



「じゃあ、もっと痕をつけても問題ないかな」


「そっ、それとこれとは話が別です…っ!」



顔を赤らめて必死に否定する彼女を見て槙島は口に手を添えて笑いを噛み殺そうとし、くっくっく…と喉を鳴らした。



「っ〜、槙島さん…、からかわないでくださいっ」


「ごめんよ。君があまりにも可愛らしかったから」



彼女の言動、表情、その一つ一つが槙島にとって興味深く、彼女から新たな一面を自分の手によって引き出す喜びを感じていた。



「槙島さん」


「なんだいー…」



ふわり、と彼女から放たれる甘い香りが槙島の鼻先を掠め、柔らかな感触が首筋に当たる。
ちゅっ…と控えめな音をたて、槙島の白い首筋に淡い赤い痕が刻まれた。



「…お返しです、よ?」



「………物足りないな」



槙島は距離を詰めたままの美智の腰を抱き寄せ、胸に身体を預けさせた。
ゆっくりと顔を上げて槙島の様子を伺う美智は先ほどのしたり顔から一変し、その瞳は微かな不安…そして確かな期待に揺れていた。



「美智、君が誘ったんだ。文句は言わせない」


「っ…はい……槙島さん…」



槙島の白い指が美智の中途半端に切られた艶めく黒髪を優しく撫で、そのまま耳に掛けると、可憐な唇を貪るかのように口付けた。

(続きはまたあとで)

2013.5.29
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