07
「記憶を失って、零さんに対する気持ちが無くなったと思っているんですか?」
記憶を失う前の自分の心は分からない。
でも、私が。今の私が、零さんのことを好いている。
「記憶を失う前の自分のことは分かりません。でも、今の私が、零さんのことを好きなんです」
零さんの青く美しい瞳が見開かれた。
何を不安に思っているのか分からないが、私は自分の素直な気持ちを伝えたい。
そう思い、目を逸らさずにじっと零さんのことを見つめ続けた。
「それは、ストックホルム症候群のようなものだ」
「・・・ストックホルム症候群?」
それは聞きなれない言葉だった。
「俺が記憶を失った君を閉じ込めたから、何も分からない君は生きるために俺と一緒にいるしかなかった」
「違います、私は」
「違わない」
「零さん・・・」
「違う、君は俺のことをその名ではー・・・いや・・・すまない。僕はもう仕事に行く」
一人称が”僕”に戻った零さんは、私から目を逸らし、そのまま寝室から出て行った。
取り残された私はただ呆然とベッドの上に座り込んでいた。
***
玄関のドアが閉まる音がし、零さんが家を出た。
私は重い身体をゆっくりと動かし、リビングへと向かう。
テーブルの上には簡単な朝食と、「また数日留守にする」というメモが残されていた。
零さんは私のことをとても大事にしてくれている。
それは、行動や言葉の端々から伝わってきて、間違いないと思う。
それなのに私は零さんの気持ちがよく分からない。
「ストックホルム症候群・・・」
零さんが口にした言葉が気になり、スマートフォンで検索した。
「誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が、犯人との間に心理的なつながりを築くようになることをいう・・・?」※1
どういう意味だろう。
確かに私はある意味軟禁状態とは言えるだろう。
しかし零さんの警察手帳は確認済みだし、事情が事情なため、外部との連絡を絶たなければいけない理由がある。
でも、全て零さんから聞かされたことだ。
もしそこに嘘があったとしたら―・・・
そんなことを一瞬考えた。
その時、手元のスマートフォンが震えて、咄嗟に画面をタップした。
画面には「沖矢昴」という名前が表示されていた。
トークアプリでは比較的頻繁にやり取りをしており、そこそこ親密な関係だと思われる相手だ。
記憶を無くしてからもメッセージや電話がきていたが、零さんの言いつけを守り、連絡は取っていなかった。
通話状態のスマートフォンから、沖矢さんの声が聞こえる。
『さやかさん、無事ですか?さやかさん?』
私は一瞬迷ったが、電話口の切羽詰ったような声を無視することは出来なかった。
「・・・もしもし?」
『やっと繋がった・・・ここ数週間全く連絡が取れず、家にもいない。仕事は休職中。ご家族や友人に聞いても何も知らない。どれだけ僕が心配したことか・・・』
「あの、その、すみません」
『・・・さやかさん、今お一人ですか?』
「今は、一人です」
「今は?今まで誰かと一緒にいたのですか?」
沖矢さんは悪い人ではなさそうだが、どこまで話していいのか判断が出来ない。
でも、トークアプリの履歴を見る限り、私はこの人をとても信頼していたようだったし、何より電話口から聞こえる落ち着いた声に安心している自分に気付いた。
『・・・話せる範囲で大丈夫です。何があったんですか?』
「あの、実は私、色々あって記憶を失っていて・・・あなたのことが誰なのか分からないんです」
『それはー・・・記憶を失ってからどうしていたんですか?』
「恋人に保護されて、今は彼の家にいます」
『・・・あなたに恋人がいるのは初耳だな』
「・・・え?」
『男の名前は?』
彼の名前を出していいのだろうか。
零さんは公安だ。
その存在は公にされていないと言っていた。
だから、記憶を無くす前の私は沖矢さんにも彼の存在を言っていなかったのかもしれない。
でも、もしも零さんと私は恋人同士じゃなかったとしたら・・・?
『・・・大丈夫。僕はさやかさんの味方です。何があっても守ります』
その声に導かれるように、私は彼の名前を呟いた。
「彼の名前は、降谷零」
2018/07/12
※1 引用:wikipedia ストックホルム症候群