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人生の中で、こんなに何度もイかされたのは始めての経験だった。
体力が尽きて最後は意識を失うように眠ってしまったのだが、目が覚めると身体は綺麗に整えられていた。
ベッドに零さんの温もりが残っていないことを残念に思いながらリビングに向かうと、テーブルの上にメモが残されていた。
サンドイッチとスープが用意してあるという旨。
仕事に行かなければならず、起きるまで待てなくてごめんという謝罪。
続きは帰ってから、という甘い期待を最後に匂わせて。
ああ、好きだな。と思った。
キッチンに向かい、鍋に入ったスープを温めなおしている間に、お行儀が悪いと思いつつもサンドイッチをつまむ。
その味は、ポアロで食べていた安室さん特製サンドイッチと同じ味だ。
完璧すぎる安室さんにどこか感じていた違和感の正体が、やっと分かった。
もちろん、安室さんの人格というのも零さんの一部ではあるのだろうけれど、脚色されすぎていたのだ。
「29歳、喫茶店でバイトをするフリーター、私立探偵、テニスの腕はプロ並、愛車はスポーツカーって、」
客観的に見るとキャラ設定をやりすぎている。
ふふっと思わず笑いがこぼれてしまう。
でもそんなとんでも設定ですら周囲が受け入れてしまっているのだから、彼はやはりすごい。
きっと、私の知らない顔が他にもあるのだろう。
それでも、自分のことを"俺"と言う零さんは、素の姿だったはずだ。
素の自分を気軽に出せない気を張った生活とは、どのようなものなのか。
私には想像もつかないほど神経を使っているはずだ。
そんな零さんが私に見せた素の部分。
それが意味することを、ちゃんと胸に刻まなければいけない。
「あ、」
その時、私のスマートフォンが着信を知らせた。
画面に表示されるのは、沖矢昴という名前。
記憶を思い出した衝撃で、沖矢さんのことがすっかり抜け落ちていた。
画面を素早くタップし、端末を耳に当てる。
「沖矢さん、すみません、私・・・」
『大丈夫ですよ。大まかな事情は"彼"から聞きました』
"彼"とは、安室透を指しているのか、それとも降谷零を指しているのか。
私はうかつにも零さんの名前を沖矢さんに伝えてしまっていた。
『記憶が戻ったと”彼”は言っていましたが、今はどこに?』
「・・・事件に巻き込まれている関係で、探偵の安室さんと警察に安全な場所で保護していただいています」
嘘ではない。
『お付き合いされている方に保護されていたというのは?』
「私を安全に保護するための嘘でした。私もすっかり騙されちゃって・・・ご心配をお掛けしました」
『では、交際相手はいないのですね』
どうして沖矢さんはそんなことを聞くのだろう。
零さんとの関係は誰にも話すことはできないと分かっていたので、私は「はい」と答えた。
『・・・僕が立候補しても?』
「えっ?」
『さやかさんと連絡が取れなくなって、僕はあなたへの気持ちを自覚しました。僕は、あなたに何かがあった時に側にいられる存在になりたい。さやかさんにとって僕はただの友人かもしれませんが、僕はあなたが好きです』
突然の告白に、何と答えて良いのか分からない。
「・・・ありがとうございます。お気持ち、とても嬉しいです。でも、その、突然のことでびっくりしてしまって・・・」
答えに詰まっていると、それを察したのか沖矢さんは穏やかな声で続けた。
『困惑するのは当然です。すぐに答えを出さなくても大丈夫ですよ。あくまで立候補ですから。ただ、僕はさやかさんが心配で・・・何かあった時に気軽に頼れる相手だと思っていただければ今はそれで良いです』
だから、頼ってくださいね。と言う沖矢さんは、きっと電話口で微笑んでいる。
そう感じるほどに、その声には優しさと甘い響きが伴っていた。
それにときめくよりも先に、零さんのことを上手く誤魔化せたことにほっとしている自分に気付く。
「・・・はい。ありがとうございます」
電話が切れると、私はふーっと大きく息を吐き、ソファーに座る。
クッションをぎゅっと胸に抱くと、零さんの香りがふわりとした。
2018/07/23