09
コーヒーの良い香りに誘われて、目が覚めた。
ゆっくりとソファから起き上がると、ちょうど零さんがキッチンでコーヒーを淹れていた。
その姿に既視感を覚える。
いつも、その姿を見ていたような・・・
「気分はどう?」
「もう、大丈夫です」
零さんはマグカップを2つ持って、サイドテーブルに置いた。
「さやかはこっち。コーヒーに含まれるカフェインは血管を収縮させる作用があるから、頭痛が悪化する可能性がある」
私に差し出されたマグカップには、ホットミルクが入っていた。
「ありがとうございます」
マグカップを手に持ち、口をつけようとした瞬間、断片的な記憶が映像として頭に流れ込んできた。
がしゃん、という音がして、床にマグカップが落ちる。
足にホットミルクがかかったが、不思議と熱さは感じなかった。
そうだ、この人は、
「さやか?!」
すぐに私に駆け寄り、怪我の有無を確かめる目の前の男性をどんな感情で見れば良いのか分からなかった。
「安室・・・さん」
ポアロの店員、安室透は目を見開き、ただ私のことを見つめていた。
***
彼女が”安室”という名前を口にしたということは、思い出したのだろう。
おそらく、記憶が蘇りつつある時に、コーヒーを淹れる俺の姿を見たことが原因だ。
香りは、人の記憶に色濃く残る。
毎日のようにポアロでコーヒーを飲んでいた彼女にとって、コーヒーの香りとコーヒーを淹れる”安室”の姿がトリガーになることは安易に想像出来た。
多分、俺自身が彼女の記憶が戻ることを望んでいた。
これ以上、偽りの愛情を向けられることに耐えられなくなっていた。
彼女と過ごした時間がどんなに幸せであっても、それはまやかしでしかない。
「安室さん・・・いえ、降谷零さんが本名・・・で良いんですよね?」
「はい」
「公安の仕事の一環で、安室さんとしてポアロで働いていた、という認識で合っていますか?」
「ええ、その通りです」
頭の回転が速い。
混乱はしているようだが、この状況で与えられた情報を整理し、理解出来ている。
「・・・私を守ろうとしてくれたんですよね?」
恋人だという嘘をつき、彼女を絡め取ろうとしていたことを責められるのだと思っていた。
「記憶を無くした私を守ろうと、恋人だなんて嘘をついたんですよね?周りの人をこれ以上巻き込むわけにはいかなかったけれど、私を周囲から隔離するためにはその嘘が必要だった・・・だから、恋人らしく振舞ってはいたけれど、その・・・」
最後まで手を出さなかった。
彼女はそう言いたいのだろう。
確かに彼女が言っていることに間違いはない。
自分のせいで巻き込んで心理的に追い詰めたのは俺の責任だ。
何としても彼女を守る必要があった。
だが、守るための方法はいくらでもある。
それなのに、彼女の恋人だと嘘をついたのは、俺自身のエゴだ。
彼女は、それを分かっていない。
「・・・それだけの理由で、僕があなたにキスをしたと思いますか?」
じっと彼女を見つめる。
彼女は困ったように眉を下げて、伺うように俺を見つめる。
その顔が、どれだけ男を煽るかとも知らずに。
「僕は、ずっとあなたのことが好きだった。でも、安室透としてあなたとどれだけ親密になっても、いつかは離れなくてはいけない。徐々に自分の正体を示し、降谷零としてあなたに想いを伝えたかった。でも、僕のミスであなたを巻き込んでしまった。僕は、あなたの前から消えるか、あなたを手中に収めるかの2択を迫られた。・・・・・・そして、記憶を失ったあなたに付け込んだ。最低な男ですよ」
最後の言葉は、吐き捨てるように言った。
ああ、俺は最低だ。
2018/07/18