V サー・ヘンリー・バスカヴィル
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 ――ただ一言、『願う』とおっしゃれば――。
 
 女が発した誘惑の囁きは、彼を強く魅了した。
 声は枯れ葉が擦れ合う音のようで、潤いがなく、ひそやかで、温もりがなく、それでいて耳に心地よかった。
 女がはじめて彼のもとに訪れたとき、彼は絶望の淵に追い込まれていた。
 投資に失敗し、莫大な借金を背負い、長年の苦労の末に手に入れた牧場も抵当にとられた。
 最後のチャンスに賭けたポーカーも、借金を増やしただけだった。
 金策も尽き、借金取りから逃れて、彼は安酒場の奥のテーブルにいた。テレピン油で薄めた粗悪なウイスキーは飲めたものでなく、かといって本物の酒を飲む金はない。すべてなくした彼のもとに残ったのは拳銃が一丁。馬鹿な考えを頭に浮かべたとき、場末の盛り場に似つかわしくない花の香りがした。
 顔をあげ、彼は気づいた。
 酒場から客が消えていた。
 カウンターの向こうも空だ。
 薄暗く、しんと静まり返ったなか、彼のテーブルの傍らに、青いフードつきの外套に身をつつんだ女が立っていた。

 ――探したわ、あなた。

 女は言った。
 声に覚えはなく、フードの陰で見えない顔も見たことない顔のはずだった。
 けれどなぜか遠い昔から彼女を知っているような気がした。
 ずっと見られていた。
 追われていた。
 遠い昔からの因縁だ。
 荒れ野で息絶えた、哀れな娘――!
 あの娘に追いつかれ、目の前に回り込まれた。とうとう捕まったのだと、彼は感じた。
 女は言った。
  
 
 ――ただ一言、『願う』とおっしゃれば、あなたのもとに莫大な富と名誉、由緒ある身分がもたられさるでしょう


『願う』
 
 そう唇を動かしながら、彼は目を開けた。
 暗色のオークの梁天井がぼんやりと目に入る。
 夢をみていたのだと気づき、同時に自分がロンドンのホテルの寝室にいることを思いだした。
 
 ――願う。
 
 口のなかに、おのれの言葉の残滓が残っているような、気持ち悪さを感じて、彼は眉をひそめた。
 普段、夢など気にする性質ではない。
 目を覚ませば忘れてしまうものだし、覚えていたとしても意味があるとは思わなかった。
 ただ今朝方の夢、そして言葉は、過去の出来事が色濃く影響していた。
 彼は願ったのだ。
 富と成功、地位と名誉を欲した。
 願いは叶った。
 彼はすべてを手に入れてここにいる。
 サー・ヘンリー・バスカヴィル。

(俺の名だ)

 英国の由緒ある名家の当主であり、受けつがれていくサーの称号をもち、古い館と土地、くわえて巨万の富を相続した。
 ヘンリーはゆっくりと身を起こした。
 ロンドン、チャリング・クロス駅の東、ノーサンバランド・ストリートに面したホテルの一室――、摂政時代の家具を配した優雅な寝室だ。こじんまりとしていたが、続きの居間が広くゆったりしたつくりだから文句はない。
 ベッドから起き出すと、彼は伸びをした。小柄だががっしりとした体つきで、浅黒く日焼けしている。黒い髪と瞳。剛健な顔つきには気の強さといくぶん短気な性分が表れている。
 彼は三十一年の人生の半分以上を故郷英国を遠く離れた新大陸で過ごしてきた。

(俺は手に入れた。この俺だからこそ、手に入れたんだ)

 フンと笑い、彼は窓辺に歩みよってカーテンを開けた。外はなお薄暗かった。曇天のもと、空気はうっすら濁って見える。
 化粧台に置いていた懐中時計を手にとった。
 八時半を少し回ったところだ。
 呼び鈴を鳴らして間もなく、ノックの音がした。ガウンをはおりながらドアを開けると、湯の入った水差しをもった給仕の姿があった。
 この時、彼は気がついた。
 靴磨きのために、昨夜廊下に出していたタン革の靴が片方しかない。

「おい」

 片手で扉を押さえ、ヘンリーは洗面器に湯をそそぐ給仕に呼びかけた。

「この国じゃ、靴を片方ずつ扱うのか」
「……いえ、まさか――」

 給仕はふり返り、戸口に戻ってきた。
 ヘンリーは無言で顎をしゃくって、左の靴のみが置き去りになっているのを示した。
 太い眉をつりあげ、相手の当惑顔を睨みつける。

「どういうことなんだ?」
「申し訳ございません。ただちに確認して参ります」

 頭をさげた給仕を見下ろし、ヘンリーは苛立ちもあらわに命じた。

「早くしろよ。朝食もだ。部屋に運べ」

 バタンと扉を閉めた。
 この時、彼は靴の問題をさほど大げさにとらえていなかった。
 給仕にきつく当たったのも苛立ちのせいではなく、甘い顔をして舐められてなるものかという気持ちが大きい。
 彼はこれまでずっと気を張って生きてきた。
 ホテルの良し悪しを論じる前に旅行とは無縁の暮らしだった。
 十三歳で英国を離れてアメリカ中西部に移ったあと、生き馬の目を抜く連中のなかで揉まれながら、牧場を手に入れるために働きつづけ、その夢がかなったあとは、牧場主として働きつづけた。
 資産家の伯父の死を知ったのはほんの半月前のことで、アメリカの牧場を手放し、カナダに移ったあとだった。
 昨日、ウォータールー駅に降り立ち、彼は大都市の威容と熱気に圧倒された。
 プラットフォームには人が溢れていた。英国人が多勢を占めるが、欧州各国、そしてインド、アフリカ、東洋――さまざまな人種――装いの者たちが行きかっていた。
 遺言執行者のモーティマー医師が迎えに来る約束だが、どうやって見つけだせばいいのか。
 そんな不安が胸をよぎった時だった。

『これ、おじさんにって』

 子どもの声がした。
 見ると、新聞売りの少年がそばに立ち、彼に一通の封筒を差し出した。
 モーティマー医師からの伝言か――?
 だがどうしてこの子どもは俺だとわかったのか。
 疑問が頭に浮かんだが、声に出して問いかける前に、子どもは人ごみに紛れて姿を消していた。
 封筒を裏返して、彼は出どころを知った。
 モーティマーからではなかった。
 封筒は青い蝋で封蝋を施され、フードをかぶった修道士の姿を描いた紋章が刻印されていた。
 この紋章を、ヘンリーは知っていた。




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