※オリジナルキャラが少し出ます





昨夜遙に「俺だけを見て」と言われ、答えられずにいると、しばらくして何事も無かったかのように彼は彼女から離れていった。
少し焦げてしまったサバの香草焼きを美味しいと言いながら食べる遙はいつもとどこも変わらない。

昔から綾に対して独占欲を示したことは何度もあった。だが彼の身体が大人のように成長したせいか、その独占欲に甘い感情が含まれているような錯覚に襲われた。
子供がお気に入りのオモチャを人に取られて……そんなレベルだと思っていたのに、どうやら困ったことにそうではなさそうだ。

綾は大きく溜息をつきながら、手元の引継ぎ資料に目を通した。

鮫柄学園職員室の隅にある非常勤教師用のデスクの上には同じような資料や教材が広げられている。
産休に入る先生が丁寧に資料を作ってくれていたおかげで、特に不自由はなさそうだ。
今週中に打ち合わせを重ね、来週からは綾が本格的に授業を行うことになる。

ふと目に入った二年生の生徒名簿。

"松岡凛"

産休に入る先生が担当していたのは幸か不幸か二年生。
学内で凛と遭遇することは覚悟していたが、まさか自分が凛を教える立場になるとは思いもしなかった。

嫌なわけではないが、なんとなく複雑な心境だ。



「七瀬先生」


「っ…はい!」



他の先生に話し掛けられ、意識が引き戻される。



「体育を担当しています、山河と申します」


「あ…はい、来週から産休に入られる先生の代わりに英語を担当します七瀬綾です。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします。あの、もしよろしければ校内を案内しようと思いまして…」


「え…よろしいんですか?」


「はい。校舎がとても広いので、ある程度把握していないと不便ですしね」


「わっ…とっても助かります!よろしくお願いします」



20代後半の爽やかスポーツマンという出で立ちの山河に、綾は素直に甘えることにした。
鮫柄学園はスポーツが盛んな私立高校、更には全寮制ということもあり、ただ校舎が広いだけではなく施設も充実している。
見取り図はもらったが、さすがにすぐに把握することは難しそうだった。



「ここから先が生徒たちの寮でー…」


『山河先生、山河先生、至急職員室にお戻りください』


「あ…すみません、呼ばれてますね…」



敷地内を回っていると、校内放送が流れた。
申し訳なさそうに謝る山河に綾は微笑んだ。



「大丈夫ですよ。ぐるっと回ったら私も職員室に戻りますね。ありがとうございます」


「本当に申し訳ない……それではまた後ほど」



駆け足で職員室へと戻る山河を見送ると、綾は足を進めた。
生徒たちはまだ部活動をしている時間のためか、寮の周辺は静まり返っている。
自分に関係のあるものは特にないしさすがに中に入ることもせず、そのまま校舎に戻ることにした。


と、その時。


ぐっと腕を掴まれ、誰かに引き寄せられた。



「きゃっ…」


「っ……綾……!?」



驚きを隠せない様子で動揺する凛がそこにはいた。



「お前……なんでこんなとこに」


「凛、…久しぶり」



最後に会った1年前よりも凛の身長は伸びていて、綾の身体に大きく影を落としていた。
綾の腕を掴む手は大きくゴツゴツしているが、微かに震えている。



「……なんで、ここにいるんだよ」


「英語の非常勤教師。……言っとくけど、私も凛がここにいるなんて知らなかったんだからね。だって、岩鳶に行くと思ってたから」


「チッ………」



ばつが悪そうに舌打ちした凛は掴んでいた綾の腕を更に引き寄せ、小さな身体を抱き締めた。



「……お前、こっちに帰ってこねぇかと思った」


「………手の掛かる弟たちが私のこと待ってるんだもん。帰らないわけにはいかないでしょ?」


「っ…俺は、弟じゃねぇ…っ」


「ちょ、凛っ…ん」



強引に唇を塞がれる。
唇をこじ開けて無理やり侵入してこようとする舌から逃れるように胸板を押すが、びくともしない。



「やめっ……ぁ……」



抗議の声をあげようと口を開いた瞬間にするりと侵入した舌はすぐに綾の舌を絡め取り、吐息すら飲み込んでしまうように深く繋がった。



「んっ………ん…………はぁっ……………」



ようやく解放された時にはもう息も絶え絶えで、よろけそうになった腰を凛に抱きかかえられる。



「綾……」


「…やめて!」



頬に優しく触れた凛の手を振り払った。



「……凛、あなた、なんでこの時間にここにいるの?部活は?」


「………入ってねぇ」


「…………そう。……ねぇ、そろそろ離してくれる?松岡くん」


「綾、」


「七瀬先生。学校では、七瀬先生って呼んで。………それから、こんなこと、もう絶対にしないで」



凛から目を逸らし、小さく呟いた。



「…学校じゃなきゃ、してもいいのかよ?」


「…してもいいと思ってるの?」


「俺がしてぇんだから、いいだろ」


「馬鹿じゃないの?」



緩んだ凛の腕から逃れると、綾は振り返ることなく校舎へと戻って行った。


残された凛は指で自分の唇を拭うと、そこには甘い香りを放つ淡いピンク色のルージュが付着した。
それを再び自分の唇をなぞるように塗る。


一瞬でも、俺に会いにきたのか、と考えてしまった自分が情けない。そんなはずはないのに、期待してしまった。



「綾………」



切なく呟いた名前は、誰に聞かれることもなく消えてゆく。

(甘い香りは、消えない)

2013/9/5


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