「今日は帰り何時頃?バイト無いんだっけ」 「ああ。学校が終わってからスタジオの予定が入っているが、20時には帰る」 「分かった、ご飯作って待ってるよ」 「行ってくる」 「行ってらっしゃい」 ・・・・・・そう、普通はきっと、ここでキス。 でも私たちは、抱きしめ合うわけでもなければ、名残惜しそうに見つめ合う事もしない。 ましてキスなんて―――今まで一度だってした事なんて無い。 episode1 "アイボリー" 私みょうじなまえ、現在大学1年。 さっき出掛けて行ったのは、(学校は違うが)同じく大学1年の斎藤一。 同棲中の彼氏―――と言いたいところだけれど、残念ながらただの幼馴染である。 私が何故幼馴染と同居しているのか、特に深い理由なんてないけれど、隠す程の事でもないのでとりあえず説明しておく。 大学に入学するタイミングで実家を離れたいと両親に話したところ、一人っ子の私はものすごく心配をされた訳で。 もちろん同い年のはじめも同じタイミングで実家を出ると言っていた。 音楽をやっている為か、楽器可の防音物件を探したらしい。 私にはさっぱり分からない機材をたくさん持っていて、全部置けるようにとそこそこ広い家にしたと聞いた。 それを聞きつけた両親がはじめの実家に押しかけて放った第一声。 『はじめ君が一緒なら安心だな!』 『そうね、変な虫もつかないでしょうし!』 そんな両親の言葉になんともあっさり承諾したはじめ。私は恥ずかしくて顔もあげられなかったって言うのに。 ―――私って異性として見られてないの? きっと彼にとって私は、家族同然の存在なのだろうと思う。 だからこそ一緒に住む事を承諾したんだろうし、同居を始めてから早3ヶ月・・・・・・別に夜だって襲われたりなんてしていない。 その一線を越えたいと思っているのは、私だけなのだろうか。 はじめを見送って、時刻はまだ午前9時前。 今日は午後の講義だけだからもうひと眠りしようかなと思っていた時、リビングのテーブルに置いていた携帯がメールを受信して鳴っていた。 ********** subject:晩御飯 from:斎藤一 久しぶりに、煮魚が食べたい。 ********** ああ。はいはい。 了承したと返信をして、私はまたベッドにもぐり込んだ。 はじめとはお隣さんで、幼いころからずーっと見てきたけれど、彼女が出来たという話を聞いた事もなければそういうそぶりも全くなかった。 中学のころから音楽にハマったらしく、私の知らないバンドのCDだとか意味不明なクラシックだとかをよく聞かされたのを覚えてる。 別に興味がなかった私は「ふーん」と聞き流していたけれど、音楽の話をするはじめは何だか生き生きとしていて見ていて飽きなかった。それは今も変わらない。 高校に入ってから、貯めていたらしいお小遣いでベースを買ったと嬉しそうに話していた。それから、3年の学園祭で沖田くんとステージに立つのだと言っていたのを聞いて驚いた。 剣道部に風紀委員。普段忙しそうにしている彼が、毎週末時間を削って練習に通っていた。 もちろん私も一緒に行ったことだってあるけれど、彼らの話についていけずにただ黙って見ている事しか出来なくて。 好きだと意識し始めたのもその頃だった。毎日一緒に居たはじめが、何だか遠くに行ってしまったみたいで寂しくて。 音楽にはじめを取られてしまったと思った事さえあった。 その寂しさがはじめに伝わらないように心の奥に閉じ込めていたのに、どうしてだか沖田くんは気付いていたみたい。 「なまえちゃんさ、最近僕らに嫉妬してるでしょ」 そうしてニヤリと笑う彼に嘘は通じないと思い、正直にはじめの事が好きだと伝えた。 「僕はもっと前から君が一君の事を好きだと思ってたんだけどな」 それはきっと無意識だったんだと思う。当たり前のように隣に居た存在に恋心を抱いていたのを自分でも気付かなかった。 そうして、実際に好きだと口に出してしまったら嫌でも意識するようになってしまって。 はじめの部屋に入るのだってなんだかものすごく緊張したし、ましてベッドの上に一緒に座るなんて出来なくなっていた。 学園祭の体育館のステージで、15時から開演。彼らの出番は17時頃だと聞いていた。 ・・・が、はじめの出番に合わせて30分前に行くと既に超満員。 学園祭の他のクラスは今閑散としているのではないかと心配になるほど、ほとんどの生徒が集まっていたようだった。 もちろんはじめ達の他にも何組か出演はする。・・・でも、ステージでセッティングをしている彼らに向けられた声援を聞けば、確実で。 「総司ー!!かっこいー!」 「斎藤くーん!!」 きゃあきゃあと、彼らをみてはしゃぐ女子たちが、ほんのちょっとだけ羨ましかった。 「いいなー斎藤くんと幼馴染なんて」とよく言われるが、幼馴染でなければもっと違う距離で居られたのかもと思うと、なんだか複雑。 沖田くんは余裕の笑みで手なんか振っちゃってる。サービスいいなあ、そりゃモテるわ、なんてちらりとはじめを見ると、黙々と準備をしていた。 まあ、もし彼に手を振られたとしたら私だって卒倒する。きっとバランスのとれた二人なんだと思う。 やっと準備を終えて楽器を手にすると、始まりの合図で沖田くんが右手をあげた。 体育館に響いたのは聞いたことない爆音。 今だから分かるけれど、学校の音響なんてライブハウスに比べたら最悪で。 それでも懸命にステージで演奏している彼らはカッコイイと思った。 響いてくる低音がきっとはじめのベースだ。 全身にずっしりと感じるそれが心地よくて、私は彼から目を離せずにいた。 あんなに楽しそうに笑っているはじめを見るのは、長年一緒に居て初めてかもしれない。 まだまだ、私の知らないはじめがいるのを嬉しく思うと同時、きっと彼女にはもっと違う顔で笑うんだろうなと思うと胸の奥が締め付けられたみたいに痛かった。 ―――私にだけする顔なんてあるのかな。 会いたくて会いたいと言ったり、声が聞きたくて電話したり、触れたくて手を繋いだり、そんなのどれもはじめには想像が出来ない。 誰かを好きになったら、彼はどんな顔をするんだろう。どんな顔して「愛してる」と言うんだろう。 どんな優しさで、抱きしめてくれるんだろう。愛してくれるんだろう。 想いは溢れだしたら止まらなくて、痛くなった胸を、ライブの間中ずっと押さえていた。 ライブが終わると、袖から楽器を抱えて出てきた彼らに女子が殺到。 ああ、芸能人ってこういう感じなんだろうな。 愛想良く女の子たちに「ありがと」なんて言っている沖田くんとは反対に、はじめは居心地が悪そうにしていた。 その時ちらりと、何人かの子がはじめに何か渡しているのが見えた。 手作りのお菓子とか、手紙とか、連絡先とかに決まっている。 それを見てしまったら、私まで何だか居心地が悪くなってしまって、体育館を足早に抜けだした。 「なまえ!」 後ろから掛けられた声に驚き振り向くと、さっきまで女の子に囲まれていたはじめだった。 楽器と機材と、自分の荷物と。それからさっき受け取っていたプレゼントも全部抱えて。 ―――何も、全部受け取らなくてもいいじゃない。 そう思ったらちょっとだけ意地悪したくなって、じとっと彼を睨んで 「・・・・・・モテモテだねっ」 それだけ言ってまた歩き出した私。 後ろから聞こえた「待て」の声に足を止める訳もなくて、足早にその場を去った。 中庭で屋台をやっている自分の教室に戻ると誰も居ない。 みんなきっと学園祭を楽しんでいるんだろうなって、自分の机に伏せた。 さっきの体育館の爆音で、私の耳は少しキーンとしたまま。 鈍感になった聴覚は、近づいてくる足音に気付いてはくれなかった。 急に椅子を引いた音が聞こえて、がばっと顔をあげると、前の席にはじめが座っていた。 「起きていたのか」 「待ってるんじゃないの?さっきの子たち」 本当は来てくれた事が嬉しくてたまらないのに、どうしても素直になれなくて、また机に伏せると冷たく突き放した。 「・・・そうかもな」 「・・・・・・」 さっきベースの弦を弾いていたその指で、優しく私の髪を梳きながらはじめが言った。 「・・・俺は、ここに居たい」 今まで抱いていた不安とか、嫉妬とか、その言葉で全部消えて、私の心にあるのは彼を思う愛しい気持ちだけになった。 「・・・・・・好きなだけ、居ればいいよ」 自分でも分かる赤くなった頬を見られたくなくて、顔をあげる事は出来なかった。 |