扉を開ければ、嗅ぎ慣れた家の匂いと、それから、美味しそうな晩ご飯の匂い。 「・・・・・・ただいま」 「おかえりー」 奥から聞こえたいつもどおりのその声に、ホッとした。 episode21 "WHOLE WORLD HAPPY" 「ごめん、ちょっと一君家に寄ってた」 彼女の声が聞こえてきたキッチンを覗き込めば、ちょうど晩御飯を作り終えたらしい。 「そうなんだ。二人共、元気してた?」 「え、・・・うん」 チラリと、僕を一瞬見やると、食器棚に手を伸ばした。 たったの一瞬、それだけでは君が何を考えているのかなんてわからない。 どれにしようかな、そう言いながら僕に背中を向けて、盛りつけ用のお皿を悩んでいるようだ。 一君の家で何をしてたのかとか、今日はどうしてたの、とか、特に何を聞くでもなく。 「総司、」 「・・・ん?」 そんな彼女を眺めていれば、不思議そうな顔がこちらを向いた。 「ねえ、上着くらい脱いだら?」 「・・・え、あ・・・」 「・・・・・・変なの」 そう言って、肩を揺らして笑った。 「・・・なまえ、あのさ」 「なあに?」 「大事な話、あるんだけど」 僕の言葉に、彼女の瞳が少しだけ揺れた。 けれど、僕から目をそらすことはしないでゆっくりと唇が動いた。 「・・・・・・それは、私にとっていい話?悪い話?」 「・・・どっ・・・ち、かな」 良いか悪いか。 どちらかと問われれば、もしかしたら悪いのかもしれない。 けれど、これからちゃんと前を向いて行こうと思っているし、バンドの方でも色々仕事の話をもらえているんだ。 だから決してマイナスなんかではないと思う。でも、今の時点では僕に肩書きみたいなものなんてないわけだし。 つまりは、最低限生活していくための収入源が僕にはなくて。それはきっと、彼女を不安にさせる、という点ではやっぱり悪いことなのかもしれない。 僕が言葉を詰まらせていると、彼女が口を開いた。 「もう・・・とりあえず、上着脱いでくる!で、手洗ってくる!ほら、早く!」 動かない僕の背中をぐいぐいと押しながら、ご飯冷めちゃうんだから!と、少しだけ頬を膨らませた彼女のその様子に、思わず笑ってしまった。 「なまえ、」 「ん・・・?」 彼女の、その膨らんだ頬に軽くくちづけ、驚く彼女の頭をぽんぽんと撫でた。 「可愛い」 「・・・何、急に」 「え?嫌だなあ、いつも思ってることだけど?」 「・・・・・・ばか」 「あー、もう。そういう物欲しそうな顔しないでよ」 「してない!」 「してる」 「・・・・・・してないったら」 「・・・そうだね、僕が勝手に欲しがってるだけかも」 「総司?」 「ご飯食べたら、ちょっと時間ちょうだい?君に話したいことがあるんだ」 「・・・・・・うん、私も、聞きたことがあったの」 彼女の作ってくれたご飯を食べて、一緒に片付けをして、それから、順番にシャワーを浴びた。 その間の他愛もない話、それはいつもとなにも変わらないありふれた日常。 本当にそれが心地がいいと、僕は彼女に話そうと決めたことすら忘れそうになる。 「あれ、総司・・・?」 洗面所から戻ってきた彼女が、僕がリビングにいないことを不思議に思ったらしく、名前を呼んだ。 「こっち」 僕は、寝室のベッドに潜り込んで、彼女が来るのを待っていた。 「・・・・・・もう寝るの?」 「寒いからくっついてたい。おいで」 すると、君は少し困ったような顔をして笑う。 大事な話があると言っていたじゃない、そんな顔だ。 リビングの電気と、寝室の電気を消すと、君は僕が広げた腕の中にぴたりと体を寄せた。 彼女をぎゅうと抱きしめて、こつんと額をくっつける。 この距離では彼女の表情なんて見えないけど、ただそこに居る、体温を感じられればそれでいい。 「あのね、なまえ」 「何?」 「君に謝らなきゃいけないことがあるんだ」 「・・・・・・うん」 「嘘ついてた、ごめん」 額を少しだけ離すと、暗がりに慣れてきた瞳が、君の顔を映した。 泣きそうな彼女の瞳に、胸が締め付けられる。 こんな顔、させたかった訳じゃない。 いつもみたいに、その唇にキスを落とせば君は笑顔になるかなって、そっと顔を寄せた。 けれど、それを避けるように、彼女は身をよじった。 「・・・なまえ?」 「待って、ねえ、ちゃんと最後まで話して」 「・・・ごめん、はぐらかそうとしたわけじゃないんだ」 「大丈夫、分かってる」 僕の頬に、彼女の細い指が触れる。 「なまえ、甘えてもいい?」 返事を待たずに、僕は君のやわらかい胸に顔を埋めて、すうっと息を吸い込む。この、優しい匂いが好きだ。 頭の上から、深いため息がひとつこぼれるのが聞こえた。 「・・・おっきい子供みたい」 「彼氏だってば」 「そうだね、ごめんごめん」 そう言いながらも、僕の背中にとんとん、と子供をあやすように優しく触れて、ぎゅっと抱きしめてくれた。 「・・・・・・なまえ、僕は誰より、君のことを大切に思ってる」 「うん・・・」 僕の頭を撫でるその手は、優しい。 「だから、本当は悲しませたいわけでも、心配させたいわけでもなかったんだ」 ドクンドクンと、なまえの心臓の音が直接響いてくる。 それは、不安とか、そういうのじゃなくて、たぶん落ち着いてる音。 君に包まれているこの温もりと、心臓の音に、緊張していたのが嘘みたいに解けていく。 一つずつ、一つずつ。 ゆっくりと、君に伝えた。 カフェを辞めたこと、辞めざるを得ない状況だったこと、あの子のこと。 言えなかった理由も、全部、全部。 急かすでもなく、口を挟むわけでもなく、なまえもゆっくりと聞いてくれていたおかげだと思う。 「総司・・・」 「ん・・・?」 僕を撫でていたその手がぴたりと止まって、どうしたのだろうかと、彼女の胸から顔を上げた。 「苦しかったでしょう、一人で抱えて、ごめんね、私・・・なにも聞いてあげられなくて」 「どうしてっ・・・・・・!」 泣きそうな顔をした彼女が、そっと僕に口づけた。 「きっと私に心配かけないようにしてるんだって、わかってたけど、総司が私に嘘ついてるって、それが悲しかったの。 総司はこんなに私のこと考えてくれてたのに、私は、自分のことしか考えてなくて、だから、ごめんね」 「なまえ、君は本当に―――」 優し、すぎる。 「総司?」 「僕はたぶん、これから君をたくさん困らせると思うし、負担になるかもしれないけど」 「そんなこと・・・」 「傍に、居てもいい?」 「当たり前じゃない。私から離れてなんて行かないで」 「・・・ああ、もうっ、そういう・・・・・・ねえ、キス、しても良い?」 こくん、と頷いた彼女の唇に、噛み付くようにキスをした。 ごめんねとありがとうを、心の中で繰り返して、何度も、何度も、キスをした。 なんて、愛しい。 愛しい。 ・・・君だけが、こんなにも、愛しい。 「なまえ。君も僕を、離さないで」 愛しいんだ。 prev |