episode1 "fine bitter"



ざわざわと、知らない人たちばかりの空間に私は一歩踏み入れる。

さっき受け取ったチケットは手汗でじっとりと湿っていた。

まわりでは今か今かと待ちわびる女の子たち。

その中の一人も、私は知らない。

フッと消えた客電。始まりの合図に黄色い声があがる。

どきどきと、高まっていく鼓動。

はじまりはいつもそう。

流れてきたSEと、ともされた眼つぶしの照明に思わず眩しくて目を細めた。

私が知らない女の子たちが、あなたの名前を呼んでいる。

「ソウジ―!」

やだ、やだ。やめて。

そう思う気持ちと、応援してくれてありがとうの気持ちと半々。

嘘。

本当は嫌な気持ちの方が大きい。

手を振りながら出てきた彼は、スタンドからギターを持ち上げて肩にかけた。

『今日は来てくれてありがと』

きゃあああと上がる声援。

狭いオールスタンディングのライブハウスで、こないだ気に入って買ったと見せびらかしてきた首元の緩いTシャツを着ているボーカル。

私の彼氏、沖田総司。

マイク越しの彼の声は、いつ聞いても慣れない。

始まった歌に鳥肌が立つのも、曲に乗れないのも。

ここに居るとあなたが遠い人のように感じるから。

ライブに来るのは何回目だろう。





「いいから一回来てみてよ!惚れさせるから」

稼ぎもそんなにないだろう、昼間のカフェの店員はいつからか私を口説いていた。

「ライブハウスなんて行った事ないし、若い子ばっかりなんでしょ?やだ」

「大丈夫だよ、みょうじさんそこらの若い子になんて負けないくらい肌すべすべだし美人だし!」

「・・・ごめん、それって何のフォロー?遠まわしにおばさんって言ってる?」

「なんでそうなるかなー僕が大好きだから大丈夫だよってこと!」

どうせ、この「好き」もいろんな子に言っていて、ただ、お客さん集めたいだけなんでしょって思ってしまうのは、私と彼の歳の差が10歳もあるからだ。

愛想のいい彼は「お客さんが入ってきちゃったごめんね」と、笑顔で入口へ向かった。

「いらっしゃいませー」

遠くから聞こえる彼の声。

「二人なんですけどー・・・」

彼を前にした途端弾むお客さんの声色にため息をついてしまった私。

そう、実は私、彼が大好きなのだ。

口説かれにここに通っているようなもの。でも私が簡単に落ちてしまうのはなんだか癪だから、ちょっと焦らしているだけ。

本当は、ステージに立つ彼をみて瞬時に落ちるだろうって分かってる。

その姿を見たいって思うけれど、こんなに歳の離れた私の事を彼がこの先大切にしてくれるかなんて保証はないわけだから、多少の不安があるのも事実。



広げていたパソコンを閉じてお会計を済ませると、お客さんのオーダーを通した彼が慌てて向かってきた。

「もう帰っちゃうの?」

「うん、明日提出の書類も片づけられたし。今日私直帰だからこのまま帰る」

「じゃあさ、僕もう少しで終わるんだけどみょうじさん待っててよ?」

「ええ?何で!?」

ほらほら座ってて!あと5分だからとそう言って近くの椅子を引いて私を座らせた。

完全に彼のペースにのまれてる。

のまれてるし、はまってる。

お客さんの女の子たちの視線がちょっとだけ痛い。でもそれ以上に優越感が支配する。

私いつからこんな嫌な人間になっちゃったんだろう―――



「お待たせ!行こう!」

腰に巻いていたエプロンを外して、汚れたTシャツから私服に着替えた彼が戻ってきた。

言うなり私の手を引いてお疲れ様でしたとスタッフに声をかけると颯爽とお店を出る。

「ちょっと、どこ行くの?」

「どこって・・・みょうじさん家?帰るって言ってたでしょ?」

「はっ・・・・・・」

しれっと、それも当り前のように衝撃的なことを言ってのけるこの男は天然なのか策士なのか。

そう思いながらも、今朝出てきたときの部屋の状況を思い出す。

洗濯物も干しっぱなしじゃないし、食器も片づけてあるし―――まあ綺麗な状態かも・・・。

「ねーご飯つくって?僕今日短時間だからまかないつかなくってさ、お腹すいちゃった」

時計を見れば17時を少し過ぎていた。

「何、食べたいの?」

「え・・・・・・」

「だから、ご飯。それくらいなら作ってあげる」

「やった!」

そう言って、小さくガッツポーズをして見せる彼を可愛いなと思ってしまう。

「じゃ、まず買い出しだね、一緒にスーパーとかいいね、同棲してるみたいで」

「・・・ばか」

言いながら照れ笑いをして彼は私の左手から、重いパソコンの入ったカバンを奪い取ると、指をからめて手を繋いできた。

年下だけど、やっぱり男の子なんだって感じさせるその骨ばった手は、温かかった。



「うっわ、大きすぎじゃない・・・?」

「え?そう?」

到着したマンションを見上げて、買い物袋をぶら下げた彼は呆然としていた。

そこそこの会社に入ってそこそこの生活は出来ているし、たいして趣味もないからお金も減らない。

貯まっていく貯金額が怖くなってきて、最近マンションを購入したばかりだった。

僕ん家なんてボロボロの木造アパートなのにーと後ろで彼は悪態をついている。

「ただいまー」と扉を開けると、後ろに居るはずの彼から「おかえり」と返ってきた。

それが何だかくすぐったくて、頬が緩んでしまった。後ろにいる彼に見られていない事にほっとしながらリビングの扉を開くとまたしても

「広・・・みょうじさんて何者なの!?」

「えー?ただのOLです」

「こんな広くてさびしくない?」

「そりゃあ、たまには寂しくなったりもするけど・・・」

「僕一緒に住んであげてもいいよ?」

「何その上から発言。ボロアパート出たいだけでしょーが」

へへ、ばれてた?と舌を出して笑う彼はたまらなく可愛い。


話しながら冷蔵庫に食材をしまう私。

「とりあえず何飲む?お茶でいいかな?」

「うん、何でもいいよ。テレビつけていい?」

どうぞという前に既に電源を入れていた彼はテレビまででかいねと感動していた。

正直、この家に男の人を入れるのは初めて。

点けたテレビも見ずに、部屋の中を眺めている彼と一瞬目が合うと、二コリと微笑まれて目を逸らす。

「僕さ、歌詞も自分で書いてるんだよ」

「え?」

「だから、バンドの」

ああ、またその話かと適当に「ふーん」とだけ言っておくと

「みょうじさんへの想いも今度歌にしていい?」

予想外に真面目な顔をして言うもんだから、変にドキッとしてしまったじゃない。

好きにすれば、と出かかった言葉を飲み込んで「そうやって女の子口説いてるんだね」

なんて歪んだリアクションをしてしまうのは、真っ直ぐ過ぎて受け止めるのが怖いから。


リビングのローテーブルに二人分のお茶をおいて一息つくと、彼は私に向き直りまた真面目な顔をして言った。

「口説いてるのはみょうじさんだからって覚えててよね?それに、僕を家にあげるってことは、ちょっとは期待しても良いってことでしょ?」



―――天然?そんなわけない。この男は策士だ。



ゆっくりと近づいてくる彼の指先が私の頬に触れると、「やっぱりすべすべだね」とほめてくれた。

「なまえ・・・」

「ちょっ・・・」

抱き締められた耳元で「キスしていい?」なんて優しくささやいてくる彼に、体の奥が疼いて仕方ない。

それでも、こんな年下の思い通りにされたくなくて強がってしまう。



「キスしたところで、何も変わらないよ?」



そんな私のセリフにさえ、余裕の笑みで彼は言うんだ。



「キスだけで溶かしてあげるよ」

私に覆いかぶさってきた彼を、受け入れようと目を閉じたとたん。




ぐう




「へ?」


「・・・・・・うっわ最悪!良いところだったのに!」

「あっははははは!お腹は正直だね、空いてるって言ってたもんね、ご飯つくるよ」

真っ赤にした顔を両手で隠して彼は小さくなってしまった。

「ありえない・・・何で僕お腹なんて空いてるの・・・はああ」

「そんな落ち込まないでよ。ふふ」

「もー!ほら、絶対ばかにしてるでしょ!?かっこ悪いって思ったんでしょ!?」

「違う違う、そんなこと思わないよ。可愛いなって、思っただけ」

そう言ってみれば、一気に大人しくなってしまった彼。ソファーの上で抱えたひざに額を付けてまた小さくなった。



美味しいと言ってくれたご飯は完食。

食後には、ライブに絶対来てねと強引にチケットを渡された。

「もう今日は口説く自信ないから帰る」

さっきの事がよっぽど応えたのか、いつもの元気がなくなって彼は素直に玄関へ向かった。

その姿をみてちょっぴりさびしいなと思ったけれど、呼び止めることなんてできない。

「さっきの絶対忘れてね」

「えーやだ。弱み握れたみたいで嬉しい」

「かっこ悪いよー」

「ふふ、かっこ悪い沖田くんも好きだよ」




―――あ、あれ。



あれっ!?


あれ!!??


お互い一瞬停止してしまった。

言ってしまった、どうしようと焦る私と。

好きって言われた驚きの沖田くんと。

「みょうじさん、今のっ・・・」

「ば、バイバイっ!!」

急いで扉の外に彼を追いやると鍵を掛けた。

「えっ、みょうじさん!」




「・・・お願い、帰って」




「・・・うん。わかったよ。大人しく帰るから・・・その代わりにライブ絶対きてよね」

「・・・うん」

「それから、今度ちゃんと、僕から言わせて」

「・・・おやすみ」

「おやすみ」

そうして帰って行く彼の足音を確認すると、私はその場で座り込んだ。







「私のばか」




好きの気持ちに嘘はつけない。止められない。

心に留めて置けないほど、私は沖田くんが好きなんだ―――







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