「・・・悪いね、原田」
完全に、俺を“男”としてではなく“部下”としてしか見ていない、そう告げた彼女の瞳に、おそらく嘘はない。
苦笑いをこぼしてまた、タバコを咥えたその唇から目が離せなかった。
本当は、その唇を奪ってやるはずだったのに。
HONEY
「土方ぁーーー!ちょっと、あの馬鹿呼んできて!」
「んだよ」
「もー、あの馬鹿、沖田!あいつ仕事舐めてんの!?」
「またか・・・悪い、俺から言っておく」
「あんたが言っても直らないから私が言うって言ってんの、連れて来てよ」
盛大なため息をついてデスクに両肘を付き、頭を抱えた彼女を宥めるのは、いつも決まって土方さんの役目だ。
やれやれ、しょうがねえな、って顔して彼女の傍らに、立つ。
そうして、俺がまだ触れたことのない彼女の肩に、当たり前のように、触れる。
「お前は自分の仕事に集中してろ。それから、あれだ。一服してこい。休んでねえだろ?」
「・・・・・・そうする、ちょっと頭冷やしてくるわ。・・・あの馬鹿来たら引き止めておいてよ。ったく、どこ行ってんだか」
立ち上がり、独り言のようにそう言いながらオフィスを後にした。
土方さんの言葉が彼女にどう響いているのか知りたい―――俺には到底出来ないだろうが。
みょうじさんは、デキる女だ。
そしてなんとも腹立たしいことに、同期の土方さんと仲が良い。
仕事のことになると本当にまっすぐで、二日完徹したと噂を聞いたとき本当に驚いた。
疲れた顔を全く見せなかったし、服だって同じものを着ていた記憶がない。
“土方さんと付き合ってる”
そんな噂が立ち始めたのもその頃だ。
職場から近い彼の家に一緒に住んでいるんじゃないかって。
「あはは!何それ、私が土方と?まあ、面白いからそのままでもいいけどね、別に」
その噂を聞いた直後、喫煙所で偶然会った彼女は、俺の質問に答えると、声を上げて笑った。
どうやら噂は完全にデマらしいが、否定をしなくても構わないと言った彼女が本当に面白さを楽しんでいるだけなのか、わからない。
「シャワーは女友達の家に借りに行った。ついでに服も借りた。・・・・・・信じなくてもいいけど。面白いから」
今度は笑いを必死で堪えていた。
「信じますよ。俺は面白くないっすから」
「・・・・・・ふーん?」
薄めのメイクなのに、妙に色気がある。顔立ちがはっきりとしているからだろうか。
鼻筋の通った綺麗な横顔。
背中まであるストレートのロングヘアは、邪魔なのだろう、いつもアップにしている。
おかげでその、きれいな首筋とうなじが丸見えだ。
「原田ぁ、お先」
「あ・・・」
・・・やばい、見惚れてた。
気が付けば彼女は、灰皿にタバコを押し付けてオフィスへと戻って行った。
(一緒に戻るとか、そういう頭ねえのかな・・・)
俺は一人、喫煙所でうなだれた。
どうしたら俺に興味持ってくれるんだろうか。
もたれていた壁に、ゴン、と頭をぶつけて低い天井を仰いだ。
「・・・くそ、年上の落とし方なんて知らねえよ」
それからだ。
噂は加速した。
二人共それを面白がっているらしく、きちんと否定しない。
土方さんは土方さんで、悪くないとか思ってるんだろうが、それがまた、俺を苛立たせる。
俺から皆にそれは違うと否定をしたいが、彼女がそれでいいと言っていることを、俺がどうこうする権利もないだろう。
「みょうじ、今夜どうする」
「・・・ちょっと仕事残ってるんだよね、先帰ってていいよ」
そんな行き過ぎた会話。
周りの社員たちはそれだけでざわざわとしている。
彼女は違うと言っていた。
俺はそれを信じる。
だが、これでは、どこまでが真実なのか、信じているつもりだが、こんなにも不安になる。
本当に、付き合ってたら―――
残業の必要もなかったが、彼女の傍に居たい、ただそれだけで、終わるのを待つ時間つぶしに少し残ることにした。
一人、また一人と帰っていくオフィスに、ついに彼女と二人きり。
「・・・原田、珍しいね?」
「え・・・」
急に話しかけられて、何かと思えば不思議そうな顔で彼女がそう言った。
少し遠いデスク。頬杖をついた彼女の後ろ側の窓の外は真っ暗で、驚いた自分の顔がぼんやりと写っていた。
「残業」
「・・・ああ、もう終わります」
「本当?じゃ、一杯付き合わない?」
振った男を飲みに誘うとは、どういうつもりだろう。
と、普段ならきっと期待をする場面なのだが、生憎そういうわけにいかない。
男として見ていないと言われたのだ。期待のしようが無い。
「・・・先輩の奢りですか」
「こういうときだけ先輩扱いするわけ?」
「いや、喜んで付き合いますよ。みょうじさんのお誘いなら」
「よし、決まり」
・・・・・・期待ができないなら、これから先、何も変わんないだろう。
だったら、このチャンスを逃す訳にはいかない。
「原田ぁ、ビール・・・」
一杯、どころじゃなかった。
スーツ姿の客だらけ、煙たい居酒屋の隅の4人席に向かい合って座ってた。雰囲気も何もあったもんじゃない。
空のジョッキを見つめて彼女が言った。
明日も仕事だろう。これ以上飲ませては自力で帰るのも難しそうだ。
「・・・飲みすぎっすよ」
「あんた、誰に向かって言ってんの?」
タバコを取り出した彼女は、椅子に腰掛け直して火をつけた。
「じゃあ、潰れたら、俺送りますからね」
「うん、勝手にして」
「すみません、ビール二つ」
「こら、誰があんたのも頼めって言ったのよ」
「付き合えって言ったのはどこの誰ですか?」
「本当、あんた可愛くないよね」
「俺、男なんで」
「部下は可愛くてなんぼでしょう」
「・・・・・・だから、俺、男なんで」
「ああ・・・・・・そうだった、悪い」
俺が真面目にそう言えば、思い出したのか彼女が少しだけ気まずそうに目をそらした。
今まで忘れてただなんて言わせねぇよ。俺がどんな想いであんたに告白したか。
運ばれてきたビールに口を付け、喉に流し込む。
「かーっ、美味いっ」
一見、可愛さの欠片なんかないと思うかもしれないが、彼女が頑張っているのを知ってるからこそ、その姿が愛らしいと思う。
「みょうじさんは、何でそんなに頑張るんですか」
「ん・・・・・・みんなにも頑張って欲しいから」
ふぅ、と煙を吐き出したその唇が、予想外の答えを口にした。
きっと、単純に仕事が楽しい、そんな理由だろうと思っていたし。もしかしたら、土方さんが居るからとか、言われるんじゃないかと思ってたんだ。
「上に立つ人間っていうのはさ、みんなと同じじゃいけないんだよね。これがまた難しくてさ。同じ目線にならなきゃいけないこともあるし、上を向いていなきゃいけないこともあるし」
私が弱音なんて吐いてたら、みんなついて来てくれないでしょう?
そう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
「弱音吐くのは、悪いことじゃ無いと思いますけどね」
「・・・・・・だから、部下には言えないんだって、そういうの」
「それで土方さんとよく一緒に居るんですか」
「・・・別にそういうわけでもないけど」
「本当は、好き、とか」
「あはは、またその話?もう、みんな面白いくらい騙されてるから・・・っ」
テーブルをバシバシと叩きながら、お腹を抱えて笑った。その無邪気な顔は、滅多に見ることが出来ない。
もしかして、土方さんと一緒に、そんな顔して笑って楽しんでんのかよ。
ふざけんじゃねえよ。
「気が気じゃねえんだよ、その話聞く度・・・」
彼女の隣、空いている席に移動して、壁際の彼女を追い詰めた。
「原田?」
「弱音くらい、俺が聞いてやるよ。・・・だから、もう、土方さんとの噂、取り消してくれよ、頼むから」
「どう、し・・・」
「あんたが誰よりも頑張ってるの、俺が一番見てる」
「ちょっ・・・」
「いつもみんなを引っ張って、導いてくれる、あんたは最高の上司だよ」
「やめてってば、別にわたし、褒められたいとか思って仕事してるわけじゃ・・・っ」
「頑張ったご褒美がビールだけなんて、有り得ねえだろ」
いつも強気な年上の彼女が、今だけは、違って見えた。
俺を見上げたのは、どうしていいかわからないと、動揺したうるんだ瞳。
少しだけ開いた唇が、誘ってるようにしか見えなかった。
「・・・・・・送る」
「え!?ちょっと、何・・・」
彼女の腕を引いて立ち上がらせた。
初めて触れたその腕は、やっぱり華奢な女のもので。
「さっき勝手にしろって言ったのは、あんただろ、なまえ」
拾ったタクシーで彼女の家に向かった。
途中なにも言葉を交わさなかったが、俺は彼女の手を、離さなかった。
たどり着いた彼女のマンションの前で、ただ彼女の言葉を待った。
“送ってくれてありがとう”なのか“また明日”なのか“ごめんね”なのか。
何を言われるだろうかと、息苦しくなる胸に気づかれないように、少しだけ息を吐いた。手を、繋いだまま。
「・・・・・・訂正していい?」
こぼれた彼女の言葉は、予想していたどれにも当てはまらなくて、俺は驚き彼女を見下ろした。
「嬉しかった、褒めてくれたの」
視線を足元に落としたまま、そう言った彼女の頬が染まっている理由は。
「ちゃんと、男に見えたよ」
ちらり、と一瞬俺を見上げて、目があった瞬間、今度は恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「・・・このまま帰るとか言ったら、許さないから」
「は・・・・・・、みょうじさ・・・」
「私の頑張りに見合うご褒美、くれないの?」
計算でもいい、上目遣いで彼女が言ったご褒美の意味を。
「わっ・・・」
抱きしめた、腕の中。
彼女の耳元で囁いた。
「好きなだけやるよ」
キスをするのは、ここか、彼女の部屋か。
こんなことで悩める日が来るとは思わなかった。
END
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