シロクロ




「久しぶり」

 唐突に耳に飛び込んできたのは、三年前まで聞き慣れていたはずの声だった。空白の時間など感じさせない、かつてと何一つとして変わらない音色に、私の身体は勝手に反応してしまう。
 流れるように振り向くと、やはり彼が立っていた。見慣れない黒のスーツと黒のネクタイに身を包み、最後に会った時のような笑みを貼り付けて。拒絶するような出で立ちに、心がぎしりと音を鳴らす。
 とりわけ目を引いたのは、彼の右手に提げられた、彼の服装とは対照的な、真っ白な紙袋。

「げ、元気だった?」

 不自然な間を置いて、なるべく自然になるようにと考えぬいた上で口から飛び出したのは、妙に上ずっただけのありきたりな言葉で。
 もう少し気の利いた事を言えないのかと、上手く立ち回れない自分に呆れた。彼は、こんな私をどう思っただろう。恐る恐る見上げてみると彼の瞳はあの時と同じ色をしていて、私は心臓を冷たい針で串刺しにされたような気持ちになった。

「まあまあ、かな」



 私にさよならを言って突き放したあの時と、同じ目をしていた。



「……なにそれ」
「なまえは?」
「……まあ、まあ……?」

 ふ、と彼の目が切なそうに弧を描く。
 その理由が彼の身を覆う黒い衣装だとするのならば、私はどこまで踏み込んでもいいのだろうか。その意味を問いただしても、許されるのか。受け入れてもらえるのか、なんて。甘い期待が過る。
 でももしそれが、三年という時を経てもなお刃となって私に向けられた嫌味なのだとしたら? 無様に怯える私を彼はまたあざ笑うのか……なんて、猜疑心がぐるぐる巡る。
 腹の探り合いのような駆け引きに私の頭はパンク寸前で、これ以上冷静に考えるなんてできそうになかった。
 もちろん、久しぶりに呼ばれた名前に、心躍る余裕も。

 右手から左手へと、彼の黒とコントラストを描く白い紙袋が宙を移動した。中身が何なのか、ガラクタなのかそうでないのか、私には興味は無い。無いけれど、私の視線を奪って行った。
 彼は、そんな私のよこしまな行動を目ざとく見つけて、苦笑いを零して言った。

「見ての通り、お葬式だよ」


 それは、誰の?
 ……なんて、聞けるわけない。
 総司の瞳は優しげで、そして、曇っていた。死の匂いがする。彼の、とても身近なところで。
 亡くなったのは総司にとってとても大事な人だったのだと思う。だけど、それを聞いたところで私には彼をうまく慰めることができるんだろうか。
 総司にかけるべき言葉を、私は見つけられずにいる。


「彼女の、ね」


 何を、笑っているんだろうか、この男は。
 相変わらず薄っぺらい笑みを浮かべて、彼は私を見つめている。私は、なんて返せばいいのかわからない。何を求められているのか、わからない。そもそも、彼は私に何かを求めているのだろうか。
 それとも、どうでもいいのだろうか。私の言葉なんて、微塵も価値がなくて、ただ辺りを流れる風のささやきくらいにしか思っていないのだろうか。
 諦めたように、私は小さく呟いた。

「そう、なんだ」

 何かを肯定するようで、否定もせず、そして受容もしない言葉に、総司は別段気に止めたようでもなくて。

「あはは、本当、馬鹿だよね」

 瞬間、私はこの人を総司だと、思った。
 あの時、横断歩道を渡ってくるその姿は、疑いようなく総司だって、分かってた。近づいてくる気配を私はよく知っている。ずっと追いかけていた人なんだから、忘れるわけもなかったし、もう子供じゃないんだから、たかが三年くらいで人は劇的に変わったりはしない。人は、そう簡単には変われない生き物だ。
 だから、私は敢えて見ないようにしていた。交差点のずっと向こうを見据えて、視界に少しでも総司らしさを映さないようにして、あれは総司ではない、その他大勢の群衆の一人だと言い聞かせて、知らないふりをしようとしていたのだ。ただ単純に気まずいから、そして、こんなことで心が動く自分が惨めになるから。
 あんなに私を好きだって言ったくせに、総司はあっさりと私を振った。丸めた紙をゴミ箱に投げ入れるのとおんなじ。簡単に捨てて、それから一切音沙汰無し。ばか、ひとでなし。何度も何度も悪態を吐いて、私はようやく思い出を風化させてきたと思っていたのに。
 たった一目会っただけで、こうも崩れ去っていく自分が嫌だ。
 何もかも、思い出させてくる総司が嫌だ。
 挙句、大切な人が居て、その人を失ったばかりで、なのにヘラヘラ笑って近づいてくる、この人のことが私にはわからない。
 私にはずっと、わからなかった。

「…………そ、……沖田、くん」
「他人行儀。何それ。総司で良いよ、気持ち悪い」
「は。……やっぱいい」

 ただ一つだけ私にもわかることがある。
 ねぇ、総司。あんた、泣いてないんでしょ。“彼女”が亡くなって、愛しい人を失って、でもあんたは、人前でみっともなく涙を流したり、できない人だから。
 ピクリと、頬がひきつったのを私は見逃さなかった。笑みをたたえていたはずの総司の表情が硬くなる。

「なまえは昔からそうだよね。思ってるのにちゃんと言わない。だから誤解されるんだよ」
「……関係ないでしょ」
「可愛くない」
「大きなお世話」
「……本当、可愛くない」
「うるさいな、わかっ……そう、じ?」


「なまえみたいに、可愛くなければよかったんだ」


 雑音が駆け抜けていく世界を、総司の言葉は全てを掻っ攫って震わせた。
 駅前から伸びる交通量の多い道。引っ切り無しに車が行き交い、低音が響き続ける。道幅の広い歩道を歩く人、人、人。どれも同じような顔をしたマネキンがたくさん歩いている。

 世界から感覚を切り取ってしまったようだ。
 
 音も、色も、温度も、感じられない。スローモーションのように、彼の手から紙袋が落ちていくのを感じ、忘れた。彼の言葉も、確かに耳に届いたあと意味のない音に分解された。全てが遥か遠くへと掻き消えていってしまう。

 ただ、懐かしい匂いに包まれている。

 スーツに染みこんだお線香の匂いは、小学生の頃に遊びに行ったおばあちゃんの家を思い出す。お日さまと、湿った土と草とが入り混じった記憶。懐かしさにきゅうと胸が締め付けられて、同時に、時折不気味さを感じていたことを思い出す。きっと、幼心に線香と死の気配の関係を嗅ぎとっていたのだと思う。本能的に、死というものへの畏怖とそれに付きまとう悲哀を察知して、けれども言葉にできないその感情にどうしたらいいのかわからなくなっていた。
 懐かしいもの、やさしいものであるはずのその匂いは、厳しく冷酷な自然の摂理を伴うものだった。だから大人になって、線香と死の関係を自覚した上で、それを懐かしいと思うのだ。いずれ還る場所なのだと実感する。
 
 ああ、でも、だめなんだ。私が泣いてしまったら、総司が泣けなくなってしまう。
 総司は不器用な人。だから人前で涙を流したりできないし、涙を流している人がいる傍でもっと泣き喚いたりはできない。けれど、今もっとも泣くべきなのは総司だ。私ではない。
 それでも鼻の奥がツンとするのは、運命の悪戯がちょっと残酷すぎるからだと思う。フラれたのは私だ。総司が別れを切り出したから、私達の関係は三年前に途切れた。その時、私は全てを無かったことにしようとした。二人で作った思い出も何もかも、記憶の片隅に押しやろうとした。ショッピングモール、カラオケ、海。あちこちに総司との思い出が詰まっていて、触れる度に心臓に杭を打ち込まれたような気分になる。私はこの人を忘れられないのだと悟った。
 だから、心の奥の邪魔にならないところで想い続けていたのに、総司はあっという間に時間を飛び越えて来た。久しぶりに、告白された日のことを思い出した。頬を染めて、好きだよって言ってくれた、彼の顔がまざまざと浮かんできて。

「総司……」

 堪え切れずに、彼の背に腕を伸ばした。
 寄りかかるようにして、彼が私に重みを預けてきた。背中に回る熱。けれどもそれは、かつてのように愛しさに溢れたものではない。私は、彼の体を支える添え木でしかない。
 ぽつり、ぽつりと吐露される、彼の思い。私ではない人に向けれられた、言葉。

「どうして……なんで、ついこの前まで元気で笑って…………」

 この声を受け取るべき人はここには居ない。だから、

「――泣いて良いよ?」

 私はやさしい声で囁いた。
 彼は、自分の弱いところを見せるのを極端に嫌った。それは彼の強さであり、脆さでもある。
 彼は人前では強くあり続ける。まるで暗示のように、彼はそれを実現する。飄々としていて芯があるのが総司の強み。
 逆に、逃げ場所を失ってしまっているのが、弱み。

 大切な人を失って、泣きたいのに泣けなくて、白磁の人形のような顔で立ち尽くす彼。

「その人のことを、愛していたんでしょ」

 滅多に涙を見せない彼が、私が気付くくらいに瞳を潤ませている。ぐったりと力を失って、寄りかかるようなその人を私は抱きしめた。

「愛してるよ、僕は、今でも、ずっと、これからも、愛してる」

 嗚咽に混じって、彼の言葉と涙が溢れだす。
 どうして、この声を受け止めるべき人はここにいないんだろう。どうして、私が聞いてしまったんだろう。
 私はこの人になんて言うんだろう。

「気のすむまで、愛してあげて」

 ほろりと自然に彼を気遣う言葉が出てきて、穏やかなトーンに自分でも驚いた。それを見て、総司も泣き顔をくしゃりと歪めて小さく笑った。
 彼の腕が、するりと抜けていく。温もりが遠ざかる。もう、私は必要じゃない。私の役目は終わったみたい。
 総司は大事でもなさそうなその白い紙袋を拾い上げた。

「言われなくても、そうするよ」

 ……本当は、私を愛して欲しいの。他の誰でもなくて、あなたを置いていってしまった他人じゃなくて、私のことを、愛してほしい。
 もう一度、好きだよって言ってほしい。夕暮時の公園で、二人だけになる瞬間を待ってから、はにかみながら言ってくれた言葉をもう一度投げかけてほしい。そしたら私、またあの時みたいに、私も、って言うから。
 今度はちゃんと、涙に袖を濡らしながらじゃなくて、笑って抱き合うこともできるから。恥ずかしがって出来なかったことも、今ならきっとできる。
 誰かの代わりじゃない、私を見て欲しい。

 でも、それは叶わない夢。だから。


「ねえ、一つだけ約束して」

 呼び止めなければ、彼が消えてしまう気がした。
 私の声に、鼻頭は赤らめたまま、歩き出そうとしていた足を止めて彼は振り向いた。偶然出会った瞬間と同じ、よそ行きの顔を浮かべている。内側をさらけ出す時間はとうに終わってしまったらしい。
 ごくり、と喉が鳴る。彼とは他人同士になってしまった、その事実が怖い。

 それでも、私は言う。その言葉を、大切な、あなたのために。




「自分が死ねばよかったのに、なんて思わないで」




 一瞬目を丸くした彼は、ゆっくりと口を動かした。



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