その世界を彩る僕ら



 僕が死ねばよかった。

 目の前で青白い顔で横たわる、すでに心臓の動きを止めてしまった彼女を見て、本気でそう思った。
 ――ご臨終です。ご愁傷様です――医者の声も、彼女の家族の取り乱す泣き声も、全部が遠くて、僕はただ空っぽのままに立ち尽くしていた。
 なんで僕は今生きてるんだろう。
 なんで彼女は、冷たくなっているんだろう。
 どうして他の誰でもなくて、彼女が死に選ばれたんだろう。

 彼女に先立たれた彼氏の顔をしながらも、僕の真ん中は空虚になっていった。
 通夜を終えて一人になった瞬間、それを嫌というほど自覚した。たまらなく寂しくて、僕はその日食べたものを全部吐き出した。お腹の中が空っぽになって、それでも僕の気は休まらない。眠れば少しは気が紛れるかと思ったけれど、そもそも眠れるような状態じゃなかった。一晩経ったって、僕の頭を占めるのはたったひとつの願い事ばかり。

 会いたい。彼女に会いたい。

 声が聞きたくてたまらない。柔らかな手が恋しい。あの温もりをもう一度感じたい。
 だけど彼女は冷たくなって、焼かれて、灰になってるんだろう。
 もう二度と、僕の名前を呼んでくれないし、僕の髪を撫でてはくれないし、僕を抱き締めてもくれない。悲しくてたまらない僕を慰めてくれない。彼女だった身体さえも、今はもう存在しない。
 それでも僕は、彼女に会いたかった。一生叶うことの願いだけど、諦めることはできなくて。

 だって、こんな残酷なこと、受け入れられるわけないじゃないか。
 少し前まで、あんなに元気に笑っていたのに。僕の言葉に一喜一憂して、でも照れくさそうに「好きだよ」って言ってくれたのに。僕の名前を呼ぶ時の上ずった響きが初々しくて好きだったのに。僕が「僕も好きだよ」って言えば、頬を染めてふいと視線を逸らして、でもじれったそうにこっちを見つめてくる、そんな視線のやり取りがいじらしくて大好きだったのに。
 それがもう、できない。
 君がいない。


 もし、彼女の後を追って僕が死んだら、


「…………はぁ、」


 なんて、馬鹿げた考えばかり浮かんでくる。
 どうしようもないな。こんな風に何も手につかなくなるなんて思わなかった。葬式の間も、実感が沸かなくて僕はどこか上の空で立っていた。火葬場の淡白な金属のドアも現実味の無さを加速させた。現実の時間を生きているという感覚がなくて、御礼に渡された紙袋を受け取る腕も、帰り道を歩く足も、自分のものじゃないみたいに感じた。
 青だった信号が点滅して、赤になる。車が行き交う大通りに飛び出したら、僕は――またそんな考えが浮かんだ。そのくせ、足はしっかり横断歩道の手前で止まる。
 思い通りにならない身体に、それまですっかり失っていた涙というものが溢れそうになった。こんな人前で泣いてどうするの。涙が零れないよう代わりに溜息を零して、僕はつま先を凝視していた顔を上げた。

 そこに、君は立っていた。

 ああ、もう。どうしても僕の頭はぐちゃぐちゃになる。
 幸せが不幸に代わって、それでも僕は忘れられなくて、縋ったものは過去の幸せ。
 


「久しぶり」



 そう言って僕はなまえに近づいた。

 この再会が偶然か必然かわからない。僕にとってこれが幸運への転機なのかさらなる不幸の始まりなのか、なまえにとって幸か不幸か、わからない。
 ただ僕は、僕の言葉におどおどと返事をするなまえを見て、なまえが、断絶した時間を経ても気持ちを途絶えさせていないことに気付いてしまった。

 あの子はまだ、僕のことを好きでいてくれている。

 途端に僕はずるい考えが浮かんだんだ。ねぇ、彼女を追って僕が死んだら、君くらいは悲しんでくれる? 君の心に僕を残すことができる?
 君は今の僕みたいに、何もかも失って空っぽの心で僕を求めて彷徨い歩いてくれるのかな。

 僕の甘えを、なまえは見抜いたみたいだった。それもそうか、かつて僕たちは付き合っていたんだから。
 僕の名前を呼ぶ熱っぽい声に、僕は敏感に反応した。この声は彼女じゃない。わかっているのに、僕は背を這う腕に愛しさを感じて身体を預けた。同時に、自分の重みを知った。
 泣いていいよ、となまえは言う。途端に、悲しいという感情が嗚咽になって吹きこぼれた。
 僕はなまえに寄りかかって泣いた。彼女が亡くなって、おそらく初めてちゃんと泣いた。彼女が亡くなったということを、実感した。彼女が亡くなって悲しいということも、彼女がもう二度と僕の目の前に現れないということを、認識した。
 僕の目の前に現れてくれるのは、もうなまえだけなんだ。


 
「気のすむまで、愛してあげて」



 君は素直じゃないし、可愛くない。
 私をあの子の代わりにしないでって、私は私なんだって言えばいいのに。もっと素直に、死んだあの子のことなんて忘れて私を選んでって言えばいいのに。君はそれをしない。
 君はやさしいから、僕が欲しい言葉を選んで言ってくれる。あの日からずっと、君はとてもとてもやさしい人だった。

 だけどね、僕は。そんなやさしい君をも利用するんだよ。
 君はきっとこれからも僕のことを愛してくれるだろう。彼女のことを忘れられない僕を、それでも、自分が苦しいのを我慢しても僕を求めてくれるだろう。僕はそんな君に彼女の面影を無遠慮に重ねて、求めて、彼女のことだけを追い求めていられたら、どんなに楽だろう。君の痛みに無知でいられたら、きっと僕はその手段を選べたかもしれない。
 今はもう、それを選べない、僕は君を愛せる自信がない、彼女の面影を重ねて、愛の言葉を囁やける自信がない。そうまでして保たないといけない自分が情けなくてしょうがないんだ。

 腕を解いて、僕は自分の足で立つ。そんな僕に、君はまた、言葉をくれる。




「自分が死ねばよかったのに、なんて思わないで」




 ああもう、どうしてこのタイミングで、そういうことを言うのかな。

 さっきまで自分が死ねばよかったと思っていた僕に。
 もう二度と、君を愛せる自信なんてないって思ってた僕に。

 君は最良にして最悪な言葉をくれる。本当に、僕という人をよくわかっている。あまりに的確だから少し怖いくらいだ。
 ねぇ、もし、まだ君の存在に甘えていいのなら。
 君のことを愛せない僕を、愛してくれるのなら。




「次に僕らが会えた時は――」





***






 あれから二年、なまえから連絡は来なかった。僕が自分から連絡することも、なかった。
 亡くした恋人のことは、まだ胸の中から消えてない。彼女はまだここにいるし、僕は彼女の影を探してしまう。愛してほしいし、それ以上に愛したいと思ってる。
 それでも僕は、彼女が死んだという事実を受け入れられるようになっていた。周りの言葉にも、腫れ物扱いのような態度にも、振り回されなくなっていた。恋人に先立たれた可哀想な男から、普通の男に戻りつつあった。
 僕は、寂しいという自分の気持ちに向きあうと決めた。
 寂しいのは、愛が返ってこないから。僕がいくらあの子のことを想っても、あの子という人はもうどこにもいなくて、僕の愛は独りよがりに空中を彷徨ったまま、誰にも受け入れられずに霧散する。返ってこない愛情は、与え続ける愛情は、僕の心を満たしてくれることはなくて、恋人を失ったことによってできた心の空洞も、埋められることはない。
 僕は、愛されたいんだ。もちろん、誰でもいいわけじゃない。そんな簡単に埋められるほど、僕の渇きは軽いものじゃない。
 一番に思い浮かんだのは、なまえの笑顔だった。



「久しぶり」



 どうして君は、ここぞというタイミングで現れるんだろう。

 僕自身、この街に来るのは初めてだった。見慣れない町並み。普段ここに営業に来るのは僕とは別の奴なんだけど、そいつがたまたま出られないっていうから代理で僕が行くことになった。営業先からの電話を、そいつの不在に居合わせた僕が受け取ったから、というのもあった。
 電話口に僕が出たというのに気づくと、向こうの女性の口調が変わった。今日お忙しいですか、と事務的な要件にしれっと混ぜて来る辺り、さすがだと思う。一度会っただけで、僕なんて顔もよく覚えていないのに。もちろん、そんなことおくびにも出さないけど。
 ご指名をいただけるのはありがたいし、気に入ってもらえるのは営業もやりやすくなるからいいんだけど、今はそういう気分にはなれなかった。角が立たないように断りながら、なんとなく憂鬱な気分で僕は会社を出て営業先へ――知らない街へと、歩き出した。

 あの日、なまえに会ってから、僕はそれがたとえ見慣れた何の変哲もない景色であったとしても、ふと意識した瞬間に辺りを注意深く見回す癖ができてしまった。意識に上るまではちらりと思考をかすめることもなくて、意識した途端、それは鮮烈なシグナルで僕を駆り立てる。
 僕は、血眼になって視界からなまえを探していた。見つけられる気がした。今日こそ、なまえが立っているような気がして、毎日のようにその姿を探していた。

 “次に会えたら運命かもしれない”

 そう言ったのは僕のほう。だけど、その言葉に縛られているのもどちらかと言えば僕だ。
 自分で言って、自分で信じて、そして、叶わなかった。僕はあまりにもなまえのことを知らなすぎた。なまえに別れを告げた時に、連絡先も何もかも消してしまって、結果、僕は今のなまえのことを何も知らないことに気付いて愕然とした。今何をしているのかも、住んでいる場所がどこなのかとか、よく行くのはどこらへんなのかということを、僕は何も知らない。そのくせ、運命などと言っていつかすれ違えると馬鹿のひとつ覚えのように信じているのだから救いがない。

 いつも来ない街に降り立ち、赤信号で立ち止まる。普段は見つからない人も、街が変われば出会えるかもしれない。二年前に再会を果たした場所とは全然違うけど、もしかしたら――
 なんて、考えていた。
 そのタイミングで、君は現れた。

 ゆっくりと振り返る様が、スローモーションのように目に焼き付いた。




「こんなところで会うなんて、びっくりしたよ」


 
 驚きに震えそうになるのをなんとか堪えて吐き出した声に、なまえも、驚いた顔で、もぞもぞと言葉を紡ぐ。

「たまたまね、取引先に用事があって」

 僕もそうだよ。
 ねぇ、もっと、もっと聞かせてよ。なまえの声を聞かせて。なまえのこと、教えてよ。
 そして、僕に愛を囁いて。

 彼女の表情を見て思わず抱き締めてしまいたくなった。けれど、『たまたま取引先に用事がある』という彼女がそれどころではない状態だと気付いて、僕は伸ばしかけた手を止めた。走ったのか髪はボサボサで、紙袋を握りしめていたせいか手が白くなっている。肝心な紙袋も取手がぐしゃりと皺が寄っている。きっと、何か緊急事態があって走って荷物を運んでいるんだろう。
 全部投げ出して僕のところに来て、なんて、言えるわけがない。

 僕となまえの道は、横断歩道を渡るまでしか隣り合わせでいられなかった。渡りきったら、左右別々の道。呆気無く別れて、またいつ交わるかわからない途方もない道のりを始めることになる。
 なまえを見送りながら、僕は心に決めていた。もう、先の見えない不確かなものを求めるのは嫌だった。君は振り返ってはくれなかったけど、僕はもう、今この瞬間が『あるべくして』与えられたものだと信じて疑っていないから。




『覚えてるかな。……ねえなまえ、運命って信じる?』



 そうメールだけ入れて、早足で営業先へと向かった。




***




 とっとと終わらせて、確かめたい。予想通り例の電話口の女性に捕まった僕は、彼女がぺらぺら喋り続ける話を上の空に聞き流しながら、どうやって断ろうかってことだけ考えていた。案の定あの手この手で話を引き伸ばしてきて、なかなか切れ目が見つからない。心のなかで盛大な溜息を吐いていると、

「すみません、ちょっと電話が」

 まるで救いの神のように、僕の携帯がけたたましく鳴り響いた。ちらりと画面を確認して、着信者の名前を見た。

「……上司からみたいで。時間にうるさいんですよ、あの人。もう行かないと、また怒られちゃう」

 名残惜しそうな顔をする女性に、さも名残惜しいという愛想笑いを返して、僕はそそくさと立ち去った。
 電話はまだ鳴っていた。僕はそこに表示された名前をもう一度なぞってから、この着信音が途切れない内にと慌てて耳元に寄せた。

「なまえ、ごめん、仕事…………」

 電話口で息を呑む音がした。懐かしい。全部、懐かしいよ。

『…………』
「……なまえ?」
『…………私、』

 久しぶりに聞いた、彼女の声。震えてる、今にも泣き出しそうな声音に、僕も鼻の奥がツンとした。

「どうしたの?」
『ずっと、』
「……うん」
『総、司……』

 どんどん、僕の中で時間が遡っていく。
 なまえと付き合っていた時のような気持ちは、きっともう抱くことはできないだろう。僕にはそれ以上に愛を向けるべき相手ができてしまったから。きっと純粋に、君だけを想って、君だけを『この世でたった一人の女性』と思って触れることはできない。
 だけど僕は、君のやさしさを忘れることもできなかった。心の傷を埋めてくれるものとして、君と過ごした温かな日々を求めている。僕は、そのときの心地よさが忘れられなくて渇望している。今も、懐かしさでどうにかなってしまいそうだ。頭がクラクラする。もう一度あの夢を見たいと、心が叫んでいる。
 けれど巻き戻して回想に耽るだけが、現実逃避をするだけではだめだ。やり直すのではなく、新しい時間を紡ぐため。




「ねえ、なまえ。今夜、会えないかな。……大事な話があるんだ」




 だから、もし。
 もしも君が僕をゆるしてくれるなら。





「なまえ、もう一度、僕のそばに居てくれないかな。今度は二度と離さないけど、それでもいいよね?」



 僕はゆっくりと腕を下ろす。携帯の向こう側で聞こえていた声は、目の前にあった。目の前で、瞳を潤ませながら携帯を握りしめて、愛しい人が立っている。
 二人の間の、人ひとり分の距離。これは、僕が作ってしまったもの。君を振って、愛しい人を見つけて、失って、その喪失感に、また君を求めて。
 勝手だと思う。僕はいっぱい君のこと傷つけた。でも君は僕を好きでいてくれた。忘れないでいてくれた。僕はそのことに救われてる。
 
 二人の距離が、ゼロになる。

 貪るように唇を求めた。確かめるように、そして、二人の間の隙間を埋めていくように。君の愛が僕の傷を癒していく。おなじように、どうか君の傷も癒せますように。
 君の背中に回す腕。それに答えるように、僕の背を抱き締める、君のねつ。二つの温度が重なって、心が再び回り始めた気がした。

 まるで、白黒だった世界が再び色彩を取り戻していくように。

 つらいこともいっぱいあったし、これからも、きっと思い通りにならないことはたくさんある。それでも、君と過ごす日々は幸せだと信じてる。
 もう二度と手放したりしない。君がこれまで愛してくれていたように、僕も君のことを愛すと誓うよ。

 


「君と一緒に、僕は生きたい」



END


prev


back to >> remake top | plastic smile | 夢想花屑
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -