グレー



 家を出て、最寄り駅まで歩く道筋。同じように会社に向かう人が、ぽつりぽつりと、それぞれ慌ただしく歩いている。朝日の静けさはとうにどこかに行ってしまって、爽やかだけどどこか気だるい空気を感じながら、スーツと制服とがゆらゆらしている中に入り込んだ。
 見慣れた景色だ。
 昨日も見た。一昨日も見た。その前も、ずっと。きっとこれらかも、私はこの景色を目にして生きていくんだと思う。
 色も、音も、匂いも、全部、よく知っている。この色、この音、この匂いが、この景色を作る一セット。見慣れたせいで、特に何も感じなくなってしまったセカイ。
 けれど一つだけ、カチリと組み合わさっていた歯車が狂い始めている。
 あの日――彼に会ったあの日から私は、その無彩色の風景の中に一つの色を探している。無意識の内に、赤信号の向こう側に、あの人が立っているんじゃないかって目を彷徨わせていた。
 それがどんなに虚しいことか、自分でもわかっているのに、やめられない。
 



***




「え!? 商品が届いてない……!?」

 今日も一日、何事も無く仕事が始まり終わるものだと思っていた。毎日毎日似たような数字ばかりを追い続けるモノトーンの日々を、また一つ重ねるのだと何も疑っていなかった。
 それをぶち壊したのは、一本の電話だ。昼休憩を終えてデスクに戻ると、青い顔をした同期が子機を片手にこちらを見ていた。彼曰く、今日の午前着の納品が届いていないと、取引先からクレームの電話が入ったらしい。
 業務に差し障るからとにかく早急に送ってくれと先方が言っているとのこと。事態は一刻を争うのだ。昨日の発送状況を倉庫側は配送業者に確認して、遅延している箇所に連絡を取り……などと悠長なことをしている暇は無い。各所に確認の電話を入れつつも、とりあえず手持ちで用意出来る分の在庫をかき集め、両手に紙袋を提げながら私は取引先に走った。

 こんなに切羽詰まった事態が、まさか自分の班で起こってしまうなんて。ついてないなぁ、とずしりと手に食い込んでいた紙袋を思って深い溜息を吐いた。快速電車の窓から、背後へと流れていくビル群をぼんやりと見送る。握りしめたままの携帯はひっそりと大人しく、それが余計に嫌な予感を加速させていく。これ以上、大事にならなければいいけれど。




***


  
 総司との三年ぶりの再会を果たしてから、私の生活は少しずつ変わり始めている気がする。
 偶然出会ったあの日、別れ際に自分がなんて言ったのか、どういう顔をしていたのか、全く覚えていない。彼の姿が人混みの中に消えて、いなくなってようやく私の心は涙というものを思い出した。視界が滲んで、真っ白に歪んで、横断歩道の白線すらもぐにゃぐにゃ。みっともないから、こんなところで泣いちゃだめ。お願い、家に帰るまで堪えて。そのまま棒立ちになってわんわん泣いてしまいたいのを我慢して、家まで急いだ。玄関の扉を閉めて、もうここは私だけの場所なんだって思って、そしたら私の涙腺はあっけなく決壊した。
 蓋をしていたはずの三年間の思いと、積み重ねていた記憶。堰を切ったように溢れてきて、靴を脱ぐこともしないで冷たい玄関タイルに座り込んで泣いた。顔をくしゃくしゃにして泣いた。きっと、どんなに水に強いウォータープルーフの化粧だって滲みまくりでパンダ顔だ。気づいた時には頬はカペカペ、袖口はぐっしょり濡れて重く、大人になってもこんなに泣けるんだ、なんて思った。

 もしあの時総司が、幸せそうに笑ってくれていたら。僕はね、あの子に会えて幸せだよ、なんて言ったりしたら。……もし総司の彼女が死んでいなかったら。
 そうしたら私も、諦めることができた。
 きっと、それでも私は泣いたと思う。だけど、こんな風にどうしようもなく涙をぶちまけたりはしなかっただろう。その時流す涙は悔し涙だ。総司の愛を受ける『あの子』が羨ましくて、だけどもうどうあがいたって勝てないという敗北の絶望。それをまた、長い年月かけて風化させていくんだろう。そしていつか私も、総司のことを忘れる日がくる。
 なのに総司は、寂しい顔をして立っていた。愛しい人を喪って、泣く場所がなくて、抜け殻が上辺だけ総司の皮を被って歩いていた。
 あの時胸を貸したのがたまたま私だっただけで、きっと『そういう役回り』を担える人なら誰でもよかったんだ。私である必要なんか、これっぽっちもない。そして総司には人を選ぶ余裕すらなかった。だから、あれほど私の前で涙なんか見せなかったのに、あっけなく私に本心を吐露して泣いた。弱いところを惜しげもなく晒して。
 そんな彼に私は、何もしてあげられなかった。「泣かないで」って頭を抱きしめてあげるはずの人が、肝心な人が、いない。私はただの代役。だから私の言葉にはなんの重みもなくて総司にも届かない。たとえ、私がどれだけ総司のことを想っていても。

(……そう、じ……)

 名前を呼んでも、姿を探しても、ここに総司がいるわけじゃない。
 それでも私は、灰色の風景の中に哀しげな背中を求めてしまう。今まで目を止めなかった人波の中に隠れているんじゃないかって、探してしまうのだ。似たような背格好の人ばかりを目で追って、違う、と落胆する。
 バカみたい。わかってるのに、やめられない。やめられないことをバカみたいに続ける自分に気付いてまた自己嫌悪。そんな毎日だった。

 それもこれも、別れ際に総司が放った言葉がいけないんだ。



「次に僕らが会えた時は、運命かもしれないね」



 そんなこと、言われたら。
 必死であなたを探してしまう。すれ違いたくない。見落としてしまいたくない。せっかくのチャンスを棒に振りたくない。簡単な呪いの言葉に踊らされたって、私は。

 この出会いが運命だって、信じたい。


 今まで総司の夢なんて見たことがない。振られたばかりの頃だって、何度も何度もやり直したいって思ったのに、結局一度も総司の夢を見たことがなかった。
 なのに今は、二日に一度の頻度で総司の夢を見る。内容は、いつも付き合っていた頃の温かな夢ばかり。
 まるで、せめて夢ぐらいなら会ってもいいよ、って、思われているみたい。

 夢の総司は、温かくて切ない。あなたはいつも笑っていて、幸せそうな顔をしている。今と正反対のように。
 
 私が初めて手料理を振る舞った時の夢。
(ねぇ、ちゃんとご飯、食べてる?)

 総司とのデートで、遊園地に行った時の夢。
(彼女のお墓参り、行った?)

 仕事帰りに待ち合わせして映画を観た時の夢。
(職場で心配されてない?)

 夕日の中で総司は立ち止まって振り返ると、ふわりと笑った。
(……笑顔で、いられてるのかな)


 もし、あの時の再会はただの偶然で、この大都市の中で二度と彼とすれ違うことなんてないのだとしたら――きっとその方が可能性が高くて、私は彼にとって『かつてのだれか』にすぎないのかもしれないけど、願うことだけは許してほしい。

 神さま、どうかあの人を、幸せにしてあげてください。
 どうか彼を、すでに失ったものでこれ以上悩ませないで。

 これは私のための願いでもある。彼がこれ以上『あの子』に縛られないための、彼の中から『あの子』の記憶を薄れさせるための、願い。『あの子』がいた場所に私が入れなくてもいい。そこは唯一無二の場所であったとしても、かまわない。
 ただ、外側から私が想うための小さな場所があれば、それでいい。
 彼の涙を拭うことすらできない私には、それくらいで仕方ないのかもしれない。




***




 快速電車がホームに滑り込み、ドアを開く。私のようなオフィスルックの人はまばらだけども、学生とか、ベビーカーを押す母親だとか、結構な人数が降りた。私もその中に混じって、改札を抜ける。
 普段使わない駅だ。取引先に行くために何度か訪れたけど、この街は私の生活圏内ではなくて、どこかよそよそしい感じがする。
 昨日も、一昨日も、その前も、私はこの街のことは知らない。
 色も音も匂いも、景色も私のものじゃない。見慣れない、アウェーの風景。
 それでも私は、相変わらず彼の姿を探してしまう。街を歩くにつれてこの真新しい光景にも馴れてしまって、徐々に色彩を失っていく視界から、ただ一点の色を探してしまう。

 黒に塗りつぶされる私を引き上げる、色を。




「…………なまえ?」




 それは、白に限りなく近い、グレー。


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