「ホットのカフェラテ、トールで」

毎朝同じ電車にゆられて、毎朝同じ店でコーヒーを買う。

ガサガサとカバンの中を探りお財布を取り出す。

同じカバンで通勤しているから、それもいつもと何も変わらないはずなのに。

「・・・・・・うん?」

いつも触れるレザーの感触が無い。おかしいなあ。いや、たまたま探り当てることができなかっただけだ。

カバンの口を大きく広げてもう一度お財布を探す。

「・・・・・・えーっと・・・えー?」

駅前のこの店は、今の時間帯が激混みなことは知っている。

しかし、手間のかからないコーヒーを頼む客がほとんどで、回転も速い。

というわけで、私がもたもたしているこの間にも、きっとどんどん列ができていて、イライラしはじめる人とかも居るんじゃないだろうか。

さぁーっと血の気が引いた。

ああそうだ、昨日ネットで買い物しててクレジットカード取り出したときに―――

うん、これは、間違いない。




・・・お財布を、忘れました・・・!!




と言い切ることなど出来るはずもなく、まして作り始めてしまっているカフェラテをどうしたら良いのだろう。

今更キャンセルなんて恥ずかしくて出来るわけない。けれどいつまでもこうして居るわけには―――

「・・・彼女と同じものを。会計もふたり分で頼む」

「は―――」

すっと後ろから差し出された千円札。

ニコリと営業スマイルを見せ、手際よくレジ業務をこなす店員。

私はただ、ぽかんとそれを眺めることしかできなくて。

「受け取り口は向こうだ、あんたも知っているだろう」

「へ!?あ、あ・・・は、はい!」

彼はお会計を済ませると、ぼんやりとしていた私の背中をぽんと押して、行列を前へと進めた。

後ろに並んでいたサラリーマンに睨まれて、私は恥ずかしさで小さくなることしかできなかった。






「あの、すみませんでした。本当に、助かりました・・・」

受け取ったコーヒーのカップを両手で握り締め、店を出てからやっと彼にペコリと頭を下げた。

「否、俺の方こそ突然すまなかった。だが、こうする他に策が無かったのでな」

・・・確かに。例えばお金を貸すと言われて彼が500円を渡そうとしてきたとして。

きっと最初は断るだろう。最終的にその優しさに甘えることにはなるだろうけれど、そこでのやり取りでまた時間を取られてしまう。

「あの、今度お金お返し致しますので・・・」

「気にするな、数百円で貸しを作っただの言うつもりはない」

「悪いです、だって・・・・・・あ、じゃあこのコーヒー・・・差し上げます・・・」

「・・・俺の好意を無下にする気か?」

「え!?いや、そういうつもりじゃなくてですね、」

慌てて否定すれば、時間がないのだと言わんばかりに腕時計に落とした瞳。

それは、本当に綺麗だった。

澄んでいるのに、とても深い藍の色。

長い前髪から覗くそれと、柔らかそうな髪。

身長は彼のほうが少しだけ高くて。

どうしてか構えてしまうのは、きっと彼に隙がないからなのだろうと思う。



腕時計から顔をあげると、持っているコーヒーに口をつけ、ため息を一つ。



・・・どき。と心臓が大きく鳴った。




「そんなに礼をしたいというなら、今度もし会えたら聞いてやる。ただ、今は時間がない、あんたも急がねば遅刻するのではないか?」

「・・・え、あっ!そうです、そうでした!」


その人は、なんだかとても真っ直ぐで。

口調は少しきついけれど、声色はとても優しかった。



「冷める前に飲むと良い。温まるぞ」

「・・・い、いただきます」


返事をする代わりに微笑んだその顔が、あんまり素敵で。

慌てて目を逸らしてコーヒーに口をつけた。


「あっつ!」

滑らかな泡の隙間から流れ込んできた熱いコーヒーに驚いて。

「・・・猫舌か?」

「ち、違いますっ」



・・・あなたの、せいです。とは、言えない。






家に帰り、パソコンの前に置きっぱなしになっているお財布を見つけて笑ってしまった。

“今度もし会えたら”だなんて、そんな運命みたいなことがある訳無いだろう。

と思っていたけれど、よくよく思い返してみれば、彼も毎朝あの店に通っていると思っていいだろうか。

会社に行くまで他にもいくつかコーヒーショップはあるから、たまたまってこともあり得るけれど。

それに、会社の最寄駅も同じということもあれば、まあまあ出会う可能性も、無いわけではない。



・・・・・・あの“もし”の可能性は―――ああ、名前も知らない―――あの人の中でどれくらいだったんだろう。



もう少しだけ話したかった。

うそ、もっと知りたいって思った。

時間のなさを、勇気の出せない言い訳にした。



名刺を渡すことも出来たかもしれないけど、なんだかそれでは逆ナンみたいになってしまうかもなと思ったし。

彼が気にするなと言っていたのはそういうのが目的ではなくて、ただ純粋な優しさだったのだろうから。



でも、“もし”会えたら―――



偶然と偶然が重なる確率なんて、わからないけど。

私は、いつもと同じ店でコーヒーを買うために、いつもよりもほんの少しだけ、早めにベッドに入った。

すれ違うのが怖いから、一本早い電車に乗ろう。昨日がたまたまいつもより遅い電車だった可能性もきっとあるし。




「・・・名前くらい、聞いておけばよかった」



ベッドに潜り込んで、枕に顔をうずめた。







満員電車は窮屈で仕方がない。

押し出されるように外に出れば、冷たい空気が心地よかった。

足早に歩く人の波。

私もいつからか、それに遅れないようにと早足で歩くようになっていた。

その人ごみの中から探せるわけなんてないと分かってるけど、彼の姿はないかときょろきょろしてしまう。


ぴんと伸びた背筋と、柔らかそうな髪と―――


ふっとため息をついた自分。



・・・偶然と偶然が重なる確率なんて。





「ホットのカフェラテ、トールで」

「かしこまりました」

少しだけ時間が違うだけでこんなにも混雑具合が変わるのかと驚いた。

予想外に空いていた店で、すぐに提供されたカップを受け取り、私はそのまま会社に向かおうと思ってしまった。

だって、無理じゃないか。たった一日の偶然が、もう一度重なることなんて。

そんなもの偶然でもなんでもなくて、必然、それなら―――。

店を出るまでのたった数メートルの距離で、一歩踏み出すごとに頭の中でごちゃごちゃと考えてしまう。

期待してる自分と、諦めてる自分と。

ちらりと時計を確認すれば、いつも私がこの店に来るまであと5分猶予がある。


「・・・・・・う、んーーー」


行くか行くまいか一旦考えようと、人ごみを避け、壁にぴたりと背中を寄せた。





朝の満員電車も、会社までの道のりも。みんな一人だ。

それはそうだろう。学生じゃないんだから、待ち合わせて職場に行くなんてことはまず無い。

会話なんてなくて、何百という靴音だけが響き渡る。

ふあ、とあくびを咬み殺す眠そうな人も、ただただ真っ直ぐ前だけを見て早足で進む怖い顔の人も、スマホを見ながらニヤニヤしている人も。

ものすごい人の往来があるこの場所で、私は結局彼を待っている。

もう一度会う、その可能性の薄さと希望の無さに愕然とした。



もしかしたら一生出会えない?



寂しさと後悔が押し寄せる。

逆ナンって思われても名刺くらい渡しておけばよかった。

悔しさに少しだけ口を尖らせて、腕時計をちらりと見やった。



5分はもう、過ぎている。






「ええ、はい。その件につきましては本日お伺いした際に」



私が居たその場所に、飛び込むように人ごみの流れを避けてやってきたその人は、今まさに、私が思い描いていた人物その人で。

そうだ、この声と、横顔と、瞳と―――


驚きのあまり声が出なかったし、彼が電話をしているから声なんてかけられないな、とじっと見つめていれば、不審がった彼が私を見上げた。



「―――っ」


私に気づいたらしい彼は、そのまま電話で話を続けていた。仕事の大事な話なんだろう。

コーヒーの代わりに彼が持っていたのは分厚い手帳。

右肩でスマホを支えながら、彼がカバンの中をゴソゴソと探していた。



手帳、電話、もう一つ、欲しいものなんて言われなくたってわかる。

私は慌ててペンケースを取り出した。

急がなきゃ、とそれだけ思ってボールペンを手渡すと、彼がふっと、目元を緩めた。



(う、わぁ・・・)



少しだけ見惚れてしまって、本来の目的を思い出した。

彼にお金を返さなくては。

お財布から500円を取り出して、でも今手渡すことはできないから、彼のスーツのポケットにそっと入れた。



ちょと待て、そんな瞳が私を見上げたけれど。

またここで会えるって分かったから、それならたぶん、明日も明後日も、会えるから。



仕事に行かなければならない。

私は忙しそうな彼にぺこりと頭を下げて、歩き出そうとした、瞬間だった。



彼の左手が、私の腕を掴んだから。


「なっ・・・・・・」


彼はすぐに電話を終えて、手帳と携帯をカバンにしまい込むと、私にボールペンを差し出した。

「すまない、助かった」

「え、あの・・・いや、とんでも・・・ありません」

「それから」

「・・・はい?」

「これは何だ?」

ポケットから500円玉を取り出し、私の目の前に差し出した。

「だから、昨日の―――」

「あんたは俺の話を聞いていなかったのか?」

「え?だって、もし会えたら、って・・・」

「俺の好意を無下にするな。礼ならいくらでも聞いてやると、そう言った」

「そ、そんなのっ・・・」

「今日はもう時間が無い。・・・だから、もしあんたさえよければだが」





待ち合わせはいつもの場所で





(そう言えば、昨日ちゃんと昼飯は食べたのか?)

(・・・・・・えっと、同僚に借りて)

(目が泳いでいるようだが)

(・・・斎藤さんははっきり言葉を言い過ぎです)

(・・・!!お、俺にだって言えぬ言葉くらい、)

(ふーん?例えば何ですか?)

(・・・あんたは俺の知り合いに似ているな)

(それは・・・褒めてます?)

(さあな)




2015.09.30〜2016.07.30

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