一縷




その日もいつもと同じ時間に会社を後にしてその本屋に立ち寄った。

別に彼女に好意を寄せているからと言って、自分から特に何か出来るわけも無く、ただ、店に顔を出す事しか出来ずに数カ月が経っていたと思う。

「なまえさん」

見知らぬ男が、レジで忙しそうにする彼女に声を掛けていた。おそらく、俺と同じ年くらいだろう。

「あ、あれ!?もうそんな時間?ごめんなさい、ちょっと、待ってて?」

その男を見るなり、腕時計を確認して慌てた彼女も男を名前で呼んでいた。

お互い名前で呼び合うその関係性に、考えたくなかった“もしも”が過ぎる。





―――恋人が居るのか。





外で待っていると告げた男が店を後にするのを確認し、適当な本を手にとってレジへと向かった。

「あ、斎藤さん。ありがとうございます」



忙しくとも嫌な顔など一つしない、その笑顔はただの作り笑いなのではないかと、今は無性に不安になる。

てきぱきと、いつも通りに会計を進める彼女に、あいつは誰なんだと、聞きたくとも出来ぬ自分に苛立つ。

否、聞いたところで、どうする。俺に、何が出来る。

「また、お待ちしてますね」

釣りを貰う時に触れる、彼女の華奢なその指にでさえ跳ねる鼓動は自分ではどうにも出来ず、ただ

「・・・ああ」

彼女の笑顔に、見惚れる。





みっともない程にあがいて、もがいて、俺の方を向いてくれと、言う事が出来るだろうか。

その様な事を、俺が出来る筈など無いと自分で承知している。

・・・それならば選択肢は唯一つ。



彼女を想う事を、止める事は出来るだろうか。






「あれ・・・・・・斎藤さん!?お久しぶりです!」

横から聞こえた声は、手に持っていた本で顔を半分隠すようにしたせいで少しくぐもっていたが、間違いなく彼女の物で。

驚いたように瞬きを繰り返す彼女のその瞳。

あれから何度か、あの時の男が彼女を迎えに来ていたのを見る事が耐えられなくなり、立ち寄るのを止めたのだが、どうしても仕事の資料が必要になり、また通い慣れたその店を訪れた。

彼女が居なければ良いと思う自分と、会いたいと思う自分と。

他の店に行けばいいものを、またここに来てしまうという事は、確実に後者で。

「すまない、また取り寄せをお願いしたいのだが」

「はい!もちろんです!」

そうして彼女の後についてカウンターへと案内された。

「ではこちらに記入をお願い致します」

そう言いながら、俺の右側に用意されていたペンを、すっと左側へと移動させた。

「・・・・・・左利き、でしたよね?」

「あ、ああ・・・」

前回の取り寄せの時の事を覚えていたのかと、緩みそうになった頬を隠すために、用紙に目を落としペンを走らせた。

「・・・・・・もう、いらっしゃらないのかと思ってしまいました」

彼女のその言葉に、一瞬ピクリと手が止まりそうになったが、気付かれぬようにそのまま手を動かした。

「もしかして、お仕事転職されたのかなとか、お引っ越しされたのかなとか・・・」

書き終えた用紙を彼女へ差し出し、取り寄せる本の詳細のメモを渡すと、今度は彼女が俯いてペンを走らせる。

伏せた瞼に揺れる長いまつげも。

化粧でほんのり色づいた頬も。

癖のある、綺麗な字も。

どれも、愛しいと―――




「・・・寂しかったか」




「・・・はい?」




「あ・・・いや、何でもない、気にするな・・・」

咄嗟にこぼれた言葉を慌てて上書きしようとしても、出来る訳等無かった。

その綺麗な瞳に捉えられては、自分の気持ちを偽る事が出来ないと、俺は慌てて目を逸らす。





「・・・・・・寂しかった、ですよ?」




「何・・・・・・」



「ここ最近、あまり元気がなさそうだと思っていた矢先にいらっしゃらなくなったので、心配もしていました」

「俺の心配など、する必要無いだろう」

素直に、嬉しいと思う自分を出せないのは、あの男の存在が過ぎるからだ。

「・・・・・・だって、ずっと、私」






ずっと、俺を目で追っていたのは、彼女の方が先だったらしい。

その視線に気づく事も無く通り過ぎていた日々を、勿体ないなどと思う自分が信じられない。

それから、俺の嫉妬心を煽ったあの男は「妹の彼です。プロポーズの事、相談されてて・・・」という事らしい。





「なまえ」

「はじめさん。あとちょっと、待っててくれる?」

「ああ」



通い慣れた本屋は今、二人の待ち合わせ場所。



「お待たせ」

年上の、小さな彼女が浮かべる、照れくさそうなその笑顔が、愛しい。
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