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朝の満員電車を抜け出し、職場の最寄り駅に着いたときには、私はすでに疲弊し切っていた。もともと朝に弱い体質の上に昨夜の飲み会が間違いなく尾を引いていた。覚醒し切らない思考と重だるい吐き気を抱えて乗車時間を乗り越えた自分に拍手を讃えたい。ホームに溢れるスーツ姿のサラリーマン達の合間を縫って、どうにかエスカレーターへ乗り込み、束の間の人心地を味わう。こめかみをぐりぐりと押して目を覚まそうとしたが、大した効果は得られなかった。
多方面へ行き交うひとびとでごった返す駅構内に足を踏み入れ、改札口までの流れに乗るのはもう慣れたものだ。数メートル手前で通勤バッグからICカード式の定期券の入ったパスケースを取り出し、くたびれたサラリーマンに続いて改札機を通過する。画面に表示される有効期限がまだ先かを確認するのは癖だった。

職場に一番近い出口を目指す間も仕事に対する意欲が湧かず、呼応するようにあくびが漏れた。駅の外階段に差し掛かると、爽やかな朝の風と匂いが頬を撫でていく。けれども今の私はそれを溌剌としたやる気に換える元気もなく、うららかな陽射しにますます眠気を誘われるだけだった。眠い、家帰って寝たい、と心のなかで呟きながら手すりに縋りつき、バッグを肩に掛け直した右手で目尻を擦った。そんな私を襲ったのは、まさしく目の覚めるような出来事だった。
パンプスのヒールが段差に引っかかり、前方へつんのめる。回転の鈍った頭では一瞬何が起きたのか理解が追いつかなかった。眼下の先まで冷徹に並んだ階段を見て、生まれてはじめて血の気が引く感覚を体験する。自分でも一体どういう経緯を辿ってそうなったのかは分からなかったけれど、最初に痛みを感じたのは脛の辺り。ちょうど横座りをした格好で段差の角の上を滑るようにして落ちたのだと思う。最後は前に突いた右手がブレーキを掛けたおかげで止まった。今自分は転んだのだと自覚が芽生える頃には、さきほどの位置から四、五段は下のところにいた。周囲が水を打ったように静まり返り――私がそう感じただけかもしれない――、慌ただしい朝の風景がぴたりと止まって見えた。身のすくむような羞恥心が首をもたげるのと、下敷きにした脛がじんじんと痛み出すのはほぼ同時だった。

なにこれ死にたい。生きてきたなかで一番強く、切実に思った。いい歳して転んでしまった恥ずかしさと格好悪さを受け止めきれずに放心する私に、世間のひとびとは冷たかった。止まっていたはずの時間をさっさと再開し、階段の端に佇む私のことなど気にも留めないで通り過ぎていく。いや、むしろそのほうが私にとっても良かったのかもしれない。二十代も半ばの女の失態を見なかったことにしてくれるのならば、これ以上の親切はないだろう。もちろん心からの皮肉だ。

「っ、い、たい……」

次から次へと入れ違いにひとはやって来る。いつまでも座り込んでいるわけにはいかない、と立ち上がろうと試みるも、思ったよりも足の痛みが重い。まさか折れたわけではないと思うけれど、歯を食いしばらなければ力を込めることすら難しかった。

「ちょっと、君、大丈夫?」

コツコツ、と駆け下りる靴音が私の斜め後ろで止まり、肩を叩かれた。大袈裟に身体が震えてしまったのは、声を掛けられたことへ対する驚きに他ならない。事なかれ主義が当国の国民性ではなかったのか、と衝撃を受けながらも「えっ、あ、ハイ」と勝手に口が強がった。当然大丈夫なわけがないのは明白だし、たぶん尋ねた相手も分かっている。むしろ分かっているから尋ねたのだ。
これだけひとがいるのだからひとりくらい手を差し伸べてくれたっていいじゃないかといじけていたはずの私はどこへやら。声を掛けられた途端に居た堪れなくなってしまったのは、赤の他人から見ても自分は余程かわいそうで惨めに映るのだと悟ったからだ。つまり、声を掛けざるを得ないくらいに――それこそ客観的にも主観的にも――今の私が無様であると示している。しがない自尊心はもう粉々だった。
恥辱を堪え、相手を振り返る。光沢のある茶色の革靴が最初に目に入り、細身のスラックスを履いたすらりとした足を辿り、視線を上へと持っていく。

「立てそう?足捻ってない?」

背を屈め、小首を傾げながら手のひらを差し出すのは、別世界からやってきたような凄まじいイケメンだった。これまで自分が見てきたイケメンともてはやされていた男達は一体なんだったのかと愕然とする。歳は自分よりひとつかふたつ上だろうか、紺のスーツをこれでもかとスマートに着こなし、物腰の柔らかそうな微笑みを浮かべている。袖からはシンプルながらに高価そうな腕時計が覗いていた。私は差し伸べられた手を前にしてぽかんと口を開け、白昼夢でも見ているような気分で見惚れていた。

「もしかして痛くて立てない?」
「あっ、いや、あの」
「ん?」

意識を引き戻され、しどろもどろになる私に、イケメンさんがこてりと首を傾げる。社会人にしては長めの前髪がさらりと流れ、優しげな瞳が見え隠れする。

「ずっと座ってたら服が汚れちゃうよ」

差し伸べられていた手が私の手首を掴み、引き上げる。動いた拍子に足が痛み、膝が折れそうになったところをごく自然に腰を支えられた。イケメンは助け方までイケメンだと感動しながらも、つい顔が熱くなってしまう。特に面食いというわけでもなかったのに、イケメンは問答無用で女子にときめきを与えるらしい。自分が無様に転んだことなど忘れて胸を高鳴らせていると、彼はとてもいい笑顔で言った。

「すっごいダイナミックに転んだよね、ふっ、ははは、上から見てたんだけどつい笑っちゃった」
「えっ、」
「履いてたのがショートパンツで良かったね、スカートだったらパンツ全開だったよ、それはそれで面白かったけど」
「…………」

この会話がなければ、最高の第一印象だったのに。安易にときめいた自分を殴りたい。全力で笑い飛ばすイケメン――ただし性格に難ありの模様――に私はぎこちない笑みで返すのが精一杯だった。


**


イケメンは逃げ去ろうとする私の腕を半ば強引に引っ張り、駅前の木陰にあるベンチに座らせた。私の足の具合を確認してから「ちょっと待ってて」と告げて踵を返し、近くの自販機へ駆け出していった。その間に私も改めて自分の足を怖々と見下ろしてみた。

「う、わー……」

見なきゃ良かった、どこから見ても惨状だ。特に左足がひどい、脛が骨の形に沿って青黒く鬱血し、膝は真っ黒だ。出血がないのが不思議なくらいだ。視覚で把握してしまったのがいけなかったのか、途端にじくじくと痛みが強まり、痺れすら感じる。ところどころ伝線してしまったストッキング越しに患部へ触れてみると、全体的に薄っすらと腫れがあるようだった。

「これはひどい……」
「僕もそう思う」

独り言に相槌を打ったのは戻って来たイケメン。左手には自販機で買ったと思われるミネラルウォーターのペットボトルを持っている。こんなかわいそうな足をした女を待たせておいて、自分だけ喉の渇きを潤そうというのか。眉をひそめていると、「足出して」と言ってボトルのキャップを開けた。

「え、なにするの、直接掛ける気、ですか?」
「なわけないでしょ、いいから足見せてよ」

私の前に膝を着いたイケメンは、スーツの内ポケットからチェック柄のハンカチを取り出し、ボトルの水で湿らせた。少し水気を絞ったあと、左足の一番腫れのひどそうな箇所へハンカチをやんわりと押し当てる。飲料水をそんなふうに使ってしまうのは勿体ないと思ったが、この辺りには水道がないから仕方ないのかとひとりで納得した。

「染みる?」
「だいじょうぶ、です」
「そう」

冷たい感触が心地良い。こうしていれば、なんとなく痛みも和らいでいくような気がする。極力患部を刺激しないようにと気を遣ってくれているのが指先の力加減から伝わった。ふくらはぎの裏へ添えられた手に下心や嫌悪感を感じないのは、伏し目がちの眼差しが真剣だからだろうか。笑い飛ばされて冷めたはずのときめきが、顔を出す。

「なんかさ、」
「?」
「伝線した跡って、ちょっとエロいよね、ドキドキする」
「は?」
「あれ?別に思わない?男だけかな」
「ええ、たぶん……」

遠い目をして薄ら笑いを浮かべた。優しいのかおかしいのかどっちかにしてほしい。あと、ときめき返せ。低俗なことを考えているときでも格好良く見えるだなんて、イケメンって本当に得でずるい生き物だ。
もう見た目に惑わされまいと心に誓い、彼から視線を外して手持ち無沙汰に周りを見回した。駅を中心に忙しなく行き交っていた人影はまばらになり、静かで穏やかな風景へと様変わりしている。街灯時計を見ればすでに九時を回っていた。

「あの、仕事行かなくていいんですか?」
「ああ、そんな時間だね。まあ、僕の職場はその辺適当だから怒られたりしないよ」
「そうですか、良かった……。付き合わせちゃってすみません」
「いいよいいよ、それより君は?もしかしなくても、もう遅刻?」
「はい……。でもこの状態を見れば大目に見てくれると思います」
「言えてる。上司に事情を話すときはさぞや恥ずかしいと思うけどね」

転倒の場面を思い出したのか、彼はくすくすと笑い声をあげて肩を揺らした。自分ではどんなふうに転んだのかよく覚えていないから、少しばつが悪くなる。今さら見栄も体裁もあったものじゃないが、どうにか取り繕う方法はないかと顔の横に垂れた髪を一房耳に掛けた。

「あ」
「えっ?」
「手、擦りむいてる」

今しがた髪を整えるために持ち上げた右手を指摘される。親指の付け根辺りから確かに擦り傷があり、僅かに血が滲んでいた。

「見せて」
「平気ですよ、これくらい」
「いいから、ついでだよ。そっちの手は?」
「なんともないみたい、です」

おそらく前に手を突いたときにできた傷だ。強がりでもなんでもなく足に比べたらどうってことなかったのに、イケメンはボトルの水を手のひらへ軽く掛けてすすいだあとにハンカチで慎重に水気を拭った。そろそろ手を引っ込めてもいいだろうかと様子を窺っていると、彼が上着のポケットからブラウンのパスケースを取り出した。グリーンと黒のチェック柄に縁取られた二つ折りのデザイン。お洒落だし良い革使ってそうだし十中八九どこかの有名ブランドのものだ。外見だけは隅々まで完璧だと感心する私をよそに、イケメンは定期券の裏から何かを引っ張り出す。

「かわいい……」
「でしょ、姪っ子がくれたんだ」

彼が自慢げに見せてきたのは、世界的な人気を誇る、はちみつが大好物のくまのイラストが描かれた絆創膏。封を開け、擦りむいたところへぺたりと貼ってくれた。手のひらの上でくまが笑いかけている。

「ありがとうございます、何から何まで……」

行きずりの怪我人にここまでしてあげるひとなんてきっとごくごく稀だろうに、それが文句無しのイケメンって一体どんな確率だ。たぶん今日で私の一生分の運を使い果たしてしまっただろう。もっとも災難が前提とした幸運ではあるのだが。

「これ、はやく治るおまじない」

私の表情が曇ったことに気づいたわけではないと思うが、イケメンが絆創膏を貼った手のひらに自分の手を載せた。間に何か紙のような質感がある。小首を傾げると、彼は意味深に口角をあげて手を離した。



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