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「名刺……?あなたの、ですか?」
「そう、もらってよ」

名刺の一番上には誰もが知っている大手企業の社名。本社のビルがこの付近にあることは知っているが、そこに勤める人間を目の当たりにするのは初めてだ。真ん中に目立つように印字されているのは、漢字で四文字。沖田総司。それがこのイケメンの名前らしかった。所属に営業一課とあるから、自然体の押しの強さと馴れ馴れしさに合点がいく。容姿のみならず勤務先まで反則めいている。
驚嘆を超えて内心引いていると、指先にざらついた感触を見つける。ひっくり返した裏面にはボールペンで連絡先が書いてあった。綺麗な字だった。

「……ずいぶんと周到ですね、こういうのたくさん用意しておいてあちこちでばら撒いてるんですか」

表面に記されたものとは異なる十一桁の数字とメールアドレス、どう考えてもプライベート用だ。甘い顔を見せておいて結局新手のナンパか、と脱力感にも似た落胆が胸に襲う。勝手な言い掛かりかもしれないけれど、なんだか裏切られた気分だ。

「違うよ、僕がそんな軽そうな男に見える?機会があったら君に渡そうと思って用意しといたんだ。ついでに言うと、実はこういうことするの初めてだったりして」

前半の問いに頷きかけて思い留まる。緩やかに弧を描く口元からは本気の度合いが読めないし、耳障りのいい言葉を並べているだけにも思える。それなのに、落胆を微かな高揚感にすり替えてしまう自分の単純さが情けない。

「お、おっしゃってる意味がよく分かりませんが、」
「君、毎朝あの時間眠そうに歩いてるよね。もしかして朝弱い?」
「強くはない、ですけど……」
「いつもふらふらしてるからさ、危なっかしいなあって思ってたんだよね。まさか階段で転ぶとは思わなかったけど」

からかい交じりに笑うイケメン改め沖田さんは、とても嘘を言っているようには見えない。けれども、すんなりと受け取るには掴みどころのなさが警戒心を残す。曖昧な相槌で返し、真意を図りかねていると、立ち上がってとなりへ腰掛けた彼は「でも、」と続けた。

「おかげで声を掛けるきっかけができたよ」
「はい?」
「週末、デートしない?」
「…………はい?」

かろうじて愛想笑いを保っていた私はとうとう口の端を引きつらせた。もとよりポーカーフェイスが得意ではなく、わりと思ったことが顔に出てしまう性分の私だ、たぶん思いきり怪訝な表情をしてしまっていると思う。分かっているのだけれど、ひそめた眉を戻すことができない。

「だから、金曜の夜に食事へ行こうって誘ってるんだけど」
「なんでそうなるんですか、なんですか食事って」
「なんでって、助けたお礼でしょ?してくれないの?」
「そういうの、普通そっちから切り出します?」
「普段、仕事何時に終わる?どこで待ち合わせようか」
「本当に本気で言ってるんですか?」
「僕はいつだって本気だよ」

新手のナンパどころか、当たり屋か恐喝に近いと思った私は失礼だろうか。下心をここまで前面に押し出されると、かえって清々しい。助けられたというよりも介抱してもらったと言うのが正しい気がしたが、本気だと言い切った彼の前では拙い屁理屈にしかならない。それに差し伸べられた手が有難かったのは紛れもない事実、たとえ打算や下心に塗れた手であってもだ。腑に落ちないながらも、手のひらで笑うくまの絆創膏を見て思い直す。

「分かりました……お礼します、させてください」
「やったあ、ありがとう!」

いかにも渋々と言ったふうに息を吐いた私に、沖田さんはとても嬉しそうな声をあげた。無邪気に喜んでいるように見えるけれど、これまでの言葉達は本当に本心から来るものなのか、今日会ったばかりの相手からそれを判断することは難しい。訝しがる心は捨てきれない。

「仕事が終わるのは日によって違いますけど、早くて七時とか……」
「分かった、遅くなるときは連絡して?電話でもメールでも好きなほうでいいよ」
「はあ、分かりました……」
「待ち合わせはやっぱり君の職場の前がいいかな、迎えに行ってあげる」
「ええっ!?いや、いいですよ、駅とか別のところで、」
「外で待ち合わせしてもいいんだけどさ、辿り着くまでにまた転ばれちゃ困るから」

余計なお世話だと心のなかで反論する。口に出さないのは、彼が私をドジっ子かおっちょこちょいだと認識していることが容易に感じ取れたからだ。上辺だけの印象が当てにならないのは承知しているが、いささか不本意ではある。しかし、それだけあの転倒シーンが強烈だったとも言えるから、私は自分の名誉のために口をつぐんだ。

「それで、」
「はい?」
「君のは?」

きらきらとした顔で手を差し出して待つ彼。一瞬何のことだか分からず、呆気に取られる。けれども、すぐに何を指すかを察し、少しの思案を置いてから鞄を探った。

「……申し遅れました、良ければどうぞ」
「これはこれはご丁寧に、どうもありがとう」

わざわざ居ずまいを正してから名刺を受け取った彼は、満足そうににっこりと笑う。できれば名乗らずに別れてしまいたかったのに、案外抜け目がないらしい。勤務先と氏名を教えるのは気が進まないが、求められたら渡さないわけにはいかない。彼の名刺を受け取ってしまった手前、なおさらだ。『NO』と言えない日本人とはまさしく私を指す。自宅を知られるわけでもないし名刺だけなら別に良いかと即座に気を取り直す私は危機感が足りないのかもしれない。もしくは、彼に調子を狂わされているか、どちらかだ。
「私のは連絡先書いてませんよ」と言ったら、「そんなの分かってるよ」と笑われた。頭のなかでなにを考えているかは読めないが、その笑顔だけは真実のような気がした。もしもすべてが真実だったら、私はどうするつもりなのだろう。

「あなたは、」
「総司でいいよ」
「……沖田さんは、」
「総司でいいよ」

寸分違わず、同じ台詞を同じトーンで繰り返され、言葉を詰まらせた。横目で彼を窺うと、期待に満ちた眼差しで私を見ている。どうしても私に下の名前で呼ばせたいらしい。

「そ、総司さんは、」
「うん」
「私がその日にちゃんと現れると思います?このままお礼しないで逃げるとか、考えませんか?」

表情の変化を見逃さないようにじっと見つめる。押しの強さでうまい具合にやり込めたつもりかもしれないが、実際の主導権は私の手にある。食事に誘って適当に遊んでやろうと目論んでいたとしても、そもそも私が彼の前に姿を現さなければそれで終わりだ。意外な質問だったのか、沖田さんはきょとんとした顔をしている。どれくらいの女を引っ掛けてきたのかは知らないけれど、誰しも皆が尻尾を振って付いていくと思ったら大間違いだ。誘いを受けたからといって軽く見られるのは心外だし、疑り深い面倒臭そうな女だと思われるなら好都合、彼の本性が分かるというものだ。

「考えないよ、逃げる気だったらわざわざそんなこと僕に聞かないでしょ?それに、君はそういう不誠実なことはしないし、できない」

ずばりと突き付けられた言葉に面食らったのは私のほうだった。否定も肯定もできないでいると、彼は困ったように首をすくめた。

「試すようなことしなくても、僕は弄ぶつもりで誘ってるんじゃないよ、安心して」

そう言って私の肩を軽く一度叩いた彼は怒っているふうでも気分を害したふうでもなく、ただ目を細めて優しく笑った。
鎌なんてかけるものじゃない、返り討ちにあった気分だ。込み上げた気恥ずかしさと罪悪感に、居心地悪く視線を彷徨わせる。確かに誰にされた親切だろうと受けた恩はできる限り返したいし、行くと言ったからには食事にだって手土産持参で行くつもりだった。それはそうなのだけれど、こうも見事に看破されてしまうと立つ瀬がない。本来、駆け引きができる器用さは持ち合わせていないが、今回は相手が悪すぎたようだ。

「あっ、ちょっと待ってて」

ベンチから腰をあげたかと思いきや、小走りで後ろの大通りへ駆けていく沖田さん。自販機の次はどこへ行くんだろうと顔を上げかけたが、またすぐに戻って来るかと思い、彼の名刺の裏へ目を落とした。
状況から察するに、私は口説かれているのか、沖田さんに。胸の奥で小さな疼きを感じる。押し込めたはずのときめきがまた顔を出そうとしている。ダメだと思うのに消し去ることができないのは、おそらく彼の本気を少しだけ信じかけているから。首の辺りが熱い、胸の疼きが動悸に変わる。

「ねえ、立てる?」
「はっ、はい!?」

正面から降ってきた声に慌てて顔をあげれば、沖田さんが戻って来ていた。差し出された手を前にして狼狽えているうちに、私の鞄を持ち上げた彼に手を引かれる。足の痛みで軽くよろめくと、やんわりと腰を抱かれた。心拍が跳ね上がる。階段で助け起こされたときとシチュエーションは同じなのに、振れ幅が桁違いだ。
沖田さんに連れられるまま、通りに出たら車道の端にタクシーが一台停まっていた。運転手は私達が近づいて来たのを見計らい、後部座席のドアを開けた。

「はい、乗って、まだ痛くて歩けないでしょ」
「いっいいですよ、会社までワンメーターもないし、」
「そう?じゃあここは僕が出しておくね」

沖田さんは運転手に私の勤務先を告げ、料金――ワンメーターだからそんなにいらないのに――を手渡した。大丈夫だと言い張っても、押し切られる形で乗車させられてしまい、不満げに彼を見上げた。

「私、受けた恩は倍返ししたいタイプですよ」
「はは、楽しみにしてる」

見ず知らずの人間に対して行う親切の基準はとっくに超えている。恋人だって普通ここまでしてくれない。私のじっとりとした視線を物ともせずに笑って受け流した沖田さんは、運転手を一度窺ってから顔を寄せた。

「ちなみに僕はけっこう尽くすタイプだよ、好きな子限定だけど」
「っ、え!?」
「また金曜日ね、なまえちゃん」

至近距離で囁いた彼は顔をたちまち真っ赤にさせた私を見て、笑みを深めた。私が返す言葉を探している間に、彼はタクシーから一歩後ずさった。 ドアが自動的にバタンと閉まる。運転手に「出発しますよ」と声を掛けられ、返事をする前に車が走り出した。咄嗟に窓越しの彼を見れば、ひらひらと手を振って見送ってくれていた。

ろくに別れ際の挨拶もできなかった、と名残惜しく思いながら、背もたれに寄り掛かる。最後の言葉はどういう意味なんだろう。考えようとするたび、勝手に頬が熱を持った。だって、どうやったって自惚れた解釈しかできそうもない。
少し走ったところでタクシーが赤信号で停車した。リアガラスを振り返り、彼の後ろ姿を探してみる。街路樹が邪魔でよく見えないけれど、長身のスーツ姿をなんとか確認することができた。じっと目を凝らすこと数秒、つい小さく吹き出してしまった。

「子どもみたい……」

口のなかで呟いて笑いを押し殺す。無理もない、窓の外に見える沖田さんはとても浮かれた様子で軽快な足取りをしていたからだ。それこそスキップでも始めそうなくらい。あれが彼の本性なのだとしたら、きっとすごく可愛いひとだ。上辺だけの印象なんてつくづく当てにならない、と口元を綻ばせた。

タクシーが会社に着くまでの僅かな時間、名刺の裏にある彼の連絡先を携帯へ登録しながら、手土産は何にしようかとそればかりを考えていた。いつもとは違った意味で週末の夜が待ち遠しくて、緩んだ頬はしばらく戻りそうにない。
思えばこのときすでに私は転がり落ちていたのかもしれない、沖田総司という男に。




まろぶなら、君と
(彼とだったら、そんな恋も悪くない。)



END


『honest!』aoi様より

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