「失礼します・・・」
カチャリ、と真っ白いドアを開けると、後ろ姿の原田先生。
陽あたりがいい研究室の窓には、西日を遮るためらしい、薄いカーテンが引かれていた。
中に入ると、タバコとコーヒーの匂いが鼻をつく。
・・・正直、タバコは好きじゃないし、コーヒーも飲めない。
たっぷりお砂糖とミルクを入れた、カフェオレなら、最近やっと飲めるようになった。
「ん、おお、どうした?」
ちらりと後ろを振り向いて、訪ねてきた人物が私だとわかると、またパソコンに向き直った。
カタカタカタ、と文字を打つ音。
「あの、お借りしていた本を・・・」
「もう読んだのか?」
「えっと・・・・・・」
私が言葉に詰まっていると、原田先生は、うん、と伸びをしてくるりと椅子を回転させた。
「わかんないところでも、あったんだろ?」
・・・そうして、得意気に笑う先生の顔は、嫌いじゃない。
というか、好きだ。
こうして原田先生を尋ねるのも、苦手なコーヒーを克服しようとしているのも、先生のことが好きだから。
いつも私なんかのことを気にかけてくれて、“お前の書く論文、面白いから楽しみだ”なんて言ってくれた。
卒論の資料を集めていた私に、ゼミの飲み会の時に“本を貸してやる”と言っていた原田先生は、酔っ払っていたから覚えてなんていないだろうと思ってた。
でも、次に会ったときに、ちゃんとそれを持ってきてくれた先生に少しだけ、期待した。
家に帰って本棚の前で、私のこと、思い出してくれたんだろうかって、それだけですごく幸せを感じてしまう私はきっと単純で。
それなのに、本を手渡された時はドキドキしすぎて“あ、覚えてたんですね”なんて言う事しかできなくて。
口から出たばかりの言葉に、本当に言いたいのは“ありがとう”なのになって、原田先生と別れたあとに盛大なため息をついたのを覚えてる。
だって、好きな人を目の前にすると、頭の中が真っ白になってしまうんだ。
「あ、えっと、ここの解釈が難しくて・・・」
「どれ」
そうして立ち上がった原田先生に、ソファに座れと促されるまま、私はゆっくりと腰を下ろした。
「ああ、ここな」
私の隣に座った原田先生との距離が近くて、ドキドキする。
ああどうしよう、こんなんじゃ説明も頭に入らないかもしれない。
隣から聞こえる先生の声と、タバコの匂いと、さっきまで飲んでただろうコーヒーの香り。
先生の顔なんて見られるわけなくて、本をじっと眺めることしかできなかった。
今、こんな風に近くにいられるけれど、卒業したら、私と先生の関係って終わってしまうんだろうか。
そんなことを考えたら、もうすこし可愛い声で甘えたりとか、もっと近くに寄ったりとか、横顔を見つめてみたりとか、なんかそういうことできる女の子だったらもうすこし違ったのかななんて思う。
この気持ちが原田先生に伝わって、彼も私を好きになってくれる確率は、一体どれくらいなんだろうかと、そんな答えのわからない問題がずっと頭の中で巡ってる。
「みょうじ・・・?」
「・・・・・・あ、はい」
「わかったか?」
「えっと・・・・・・さっきよりは」
そう答えると、苦笑いとため息をこぼした原田先生は、私の頭をぽんと叩いて、立ち上がった。
「休息も必要だぜ?あんまり真面目に頑張りすぎても、楽しくねえだろ」
「・・・・・・あの、先生?」
「・・・ん?」
パソコンデスクに置いたままの、飲みかけのコーヒーに口をつけて、デスクに寄りかかりながらこちらを向いた。
もっと距離を縮めたい。
でも、その術を知らない私。
そして、素直になれない私。
―――私が好きだって言ったら、どうしますか?
出そうになった言葉を飲み込んだ。
だって答えなんて決まっている。
「・・・いえ、何でもありません」
「・・・っと、悪い、電話だ」
パソコンデスクに置かれていた携帯が、二人の空気を壊すように鳴り出した。
先生はもちろん、目の前の私なんかよりもそれを選ぶ。
そんな当たり前のことが、少しだけ心に刺さってしまう。
ディスプレイを確認して、一瞬頬を緩ませたのは、私の見間違いなんかではないと思う。
その優しい声も、眼差しも、私へ向けてくれたらどんなに幸せだろう。
ズキリと痛んだ胸をきゅっと抑えながら、私は原田先生にペコリとして、研究室を後にした。
パタリ、と扉が閉じる瞬間聞こえた名前に、ああやっぱり女の人か、って目の前が真っ暗になった。
「千鶴」
―――先生の、愛しい人なのかな。
気づいたら、ホームにいた。
なんとなくぼんやりとしてしまって、私はずっとベンチで何本も電車を見送っていたらしい。
・・・帰らなきゃ。
やっとのことで立ち上がり、私はすぐに来た電車に乗り込んだ。
結局自分が都合のいいように全てを解釈していて。
私のことを気にかけてくれるのは、もしかしたら私のことが好きだからじゃないんだろうかと、思いたかった。
そんな私のひとりよがりの妄想は、さっき聞こえた名前と、それから、先生のゆるんだ頬に否定された。
「・・・・・・」
ため息を吐くことすら億劫で、私はリュックから携帯を取り出した。
あ・・・メール。
先生からだ。
それに気づいた瞬間に、また熱が上がる。・・・ドキドキしてる。
“さっきは途中で悪かったな。なんか相談事があったら聞いてやるから、いつでも来い”
目の前が、滲む。
だって、先生のことだよ?
私が相談したいのは、先生への想いなんだよ?
もしこれを話したとして。
きっと、目を丸くして驚いて、ごめんな彼女がいるんだなんて申し訳なさそうに言われるに決まってる。
先生からのメールも優しさも嬉しいんだけれど、どうしてもさっきのことが引っかかってしまって、私はきゅっと唇を噛んだ。
それから何日か後、講義の後に原田先生に呼び止められた。
「みょうじ・・・、大丈夫か?」
「・・・え?」
「いや、今日はちょっと、顔色が悪いんじゃねえかと思ってな」
「そう、ですか?」
もう単位は取り終えているから別に無理に出る必要もないんだけど、今日はやめようかな、なんて思いつつも、結局ギリギリに講義室に入った。
先生を見ているのは辛いけど、先生の講義は面白いから好きなんだ。
「泣きそうじゃねえか?」
「・・・・・・違いますよ・・・そんな、わけ」
「溜め込んでないで、話してスッキリしたらどうだ?時間あるなら研究室に―――」
「い、・・・行けません、失礼します」
先生の言葉を遮って、私は階段を駆け下りた。
バカみたい。
熱くなった目頭、滲んだ視界。
ああ、私、先生の言うとおり泣きそう・・・いや、もう、泣いてる。
「みょうじ!」
後ろから聞こえる大好きな先生の声。
来ないでと思う私と、抱きしめてほしいと思う私と。
そんな風に考えている私は、本当どうしようもないなって、少しだけ、呆れてしまう。
「先生・・・?」
「悪いな。泣いてる女を放って置けるほど、俺は強く出来てない」
「・・・・・・っ」
“女”
って、先生今そう言ったよね。
私のことただの学生じゃなくて、女として見てくれてるってこと?
こんな時でも都合のいいようにしか解釈できない私は本当に単純だ。
私の腕を引いて、先生が歩き出した。
それを振りほどくことは多分出来たと思うけど、しなかった。
だって、先生のことが大好きなんだもん。
だから一緒にいたいと思うし、こうして初めて先生の体温を感じられることがうれしくて。
二回目なんか無いかもしれないけど、それでも私は、この幸せを感じていたい。
先生に気づかれないように、こぼれた涙を手の甲で拭った。
結局、行かないと言ったはずの研究室に連れてこられた。
何で泣いてるのか、それも聞かずに、黙って隣に座ってる原田先生。
けれどその優しさが今はすごく、痛かったりする。
これ以上好きになんてなりたくないから、もう優しくしないで突き放してくれた方が、楽なのに。
この関係が、壊れてしまった方が楽なのに。
「みょうじ、俺な・・・」
「・・・・・・?」
ふ、と煙を吐き出した先生は、こちらをいっさい見ようともせず、話しだした。
この泣き顔を見ないようにと気を遣ってくれているんだろうか。
ほら、また・・・優しいところ見つけた。
「お前は、笑ってるほうが、可愛いと思うぜ」
「・・・・・・っ・・・!?」
「泣き顔も、守ってやりたくなって結構そそるけどな」
私の頭をぽんぽん、と叩きながら笑った原田先生。
本当は、たまらなく嬉しいはずなのに、やっぱり素直じゃない私は、少しひねくれた言葉しか返せない。
「・・・泣いてる女の子、全員にそう言ってるんですか?」
「おいおい、なんだよ、俺ってそんな風に思われてんのか!?」
「・・・・・・彼女には、なんて言って慰めるんですか?」
私の言葉を聞いて、更に驚いた原田先生は、少し考えた後、
「同じ、だよ」
簡潔すぎるその言葉を、理解する頭は私にはなかったみたい。
「どういうことですか?」
「・・・・・・伝わんねえ?あー・・・悲しいな」
「や、だって・・・」
「今、お前に言った事と同じように言うってことだよ。つまりは、彼女とお前が、イコールってことだな」
「・・・は、はあ??」
「みょうじ、超が付くほど鈍感か?」
「え、だって、先生の彼女って」
「・・・俺の彼女?彼女はいねえよ、だから今、目の前の彼女候補を口説こうとしてんだろ?」
「・・・・・・―――っ!?」
思い過ごしの効能
千鶴さんは大学時代の後輩だと言っていた。
恋愛相談をされていた原田先生はいろいろアドバイスをしていて、結果が出たら報告するようにって伝えたらしい。
いい結果なら電話で報告すると言われていたようで、だから電話がかかってきた時に嬉しそうな顔してたんだ。
「お前の論文、面白いから好きだって、俺よく言ってるだろ?」
「・・・はい」
「みょうじの・・・・・・ああ、っと、なまえ、の」
「せんっ・・・・・・先生!!!」
「何だよ」
「・・・な、名前っ・・・」
「なまえ?」
「〜〜っ、もう良いです・・・続けて下さい」
「だからな、お前の書く文章とか、物事の捉え方とか、考え方とかも含めて・・・まあ、もちろん、鈍いところもあるけど、な?」
「・・・・・・・・・」
「強がってるところとか、素直に言えないところとか」
先生は私の事を、もしかしたら私以上に良く分かってるのかもしれない。
「そういうところ、全部、好きだぜ?なまえ」
素直に好きと言えない事も。たぶん、先生はお見通しなんだ。
END
(NEXT あとがき→こなつさまへ!)
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