「なまえちゃん」
「っ、わ・・・!?」
名前を呼ばれたのと同時、後ろから伸びてきた冷たい手が私の両頬を覆った。
「あはは、びっくりした?」
「しないわけ無いですっ」
振り向けば、いたずらが大成功して喜ぶ子供みたいな、無邪気な笑顔で私を見下ろしていた沖田先輩。
「だってさ、ありえないくらい寒くて」
手のひらを擦る仕草をしながら、待たせてごめんね、と言って歩き出した。
こうして、仕事終わりに待ち合わせて飲みに行くのは何度目だろう。
大学を卒業して、お互い就職をして。
それでも、こういう関係になれたのはごく最近だ。
“飲みに誘うのなんて、なまえちゃんくらいだよ”
忘れもしない1ヶ月前、酔っ払った沖田先輩が漏らした言葉。
もしかしたら、もしかするのではないかと浮かれていた私を次の瞬間に突き落としたのも、彼の言葉。
“妹みたいで、一緒にいて楽なんだ”
―――私はあなたの、恋愛対象外。
「いつの間にか、好きだったんだよね」
頬杖をついて、先輩は正面に座る私をじっと見つめてそう言った。
真っ直ぐ、ただ私だけを映しているその瞳に、ドキドキと胸を高鳴らせることしか出来なかった。
ただ、勘違いしてはいけないのは、それが私へ向けられたものではないということ。
「危なっかしくて、何をするにも目が離せなくて」
そう、次々と沖田先輩の片想いの相手の話を聞かされている。
どうやらその人は年下で、出会いは結構前らしい。
私の知っている人だろうか、もしかして私の友人なんじゃないだろうか。途端、こみ上げてくる焦燥。
妹みたいだと言われた上、更に好きな人が居る。
どう足掻いたって叶いそうのないこの恋に、私はただ泣きそうになるのを必死でこらえて、笑顔を作った。
「なまえちゃん、ごめんね。もうこんな時間だ」
「いえ・・・」
沖田先輩と一緒にいられるなら、明日が仕事だとしても、朝までだって構わない。
一通り吐き出された片恋の悩みと、それから、大学時代の思い出話。
駅へ向かう途中に突然先輩が思い出したように言った。
「ねえ、来週空いてる?」
「・・・あ、はい」
「良かった。たまには違う店に行ってみようと思うんだけど、何か食べたいものとかない?」
「えっと、」
来週の今日―――私の、誕生日。
きっと沖田先輩はそんなこと、覚えていない、否、知らないだろう。
「じゃあ、僕が勝手に決めても怒らないでね?」
結局私は直ぐに答えられなくて、彼の提案に頷いた。
あなたと一緒なら、それだけで良い、そう言えたらどれだけ楽だろう。
私が今恋をしている彼は、大学時代の先輩だ。
友人が入っていた軽音サークルのイベントに呼ばれて行った初めてのライブハウス。
お世辞にもうまいとは言えないみんなの演奏の中、彼は一際、目立っていた。
こんなにかっこいい人がうちの大学に居たのかと。
歌も、演奏も、そのステージの佇まいも、全部、全部。
「沖田せんぱーい!この子が、めっちゃ良かったって」
「ちょっ・・・ちょっと!!」
友人に背中を押されて、先輩の前によろめいた瞬間、その腕に抱きとめられた。
「大丈夫?」
私は顔を上げることが出来ずに、一歩距離を取った。
「あの・・・す、すみません」
何か言わなくては、と思うのに、何も出てこない。
あの、その、ばかりがこの空間をどうにかつなぎ止めている。
やっとのことで絞り出したその声はきっと、とっても小さかったと思うんだけど。
「・・・素敵でした・・・本当に、あの・・・い、一番、くらい」
好きな人に告白をするみたいな気分だった。
今日初めて、しかも私が一方的に見ていたその人に、素敵だなんて。
バクバクする心臓。
彷徨う視線。
紅潮する頬。
苦しい呼吸。
「・・・一番、くらい?」
「えと・・・・・・一番、です」
そうして満面の笑みを浮かべた彼に、惚れる以外どうしようもなかった。
それから、私の友人を介して、沖田先輩のライブにも何度か顔を出したし、打ち上げにも参加させてもらった。
でも私は楽器もできないし、音楽も詳しくないから、あまり会話に混ざることはできなかったけど、ただ沖田先輩と同じ空間に居られる、それだけで本当に幸せだった。
卒業するまでその距離感が変わることなんてなくて。
ただ、先輩に彼女が居たのかどうか、それすらも曖昧。
色んな女の子と話しているのを見かけては、切なくなった。
先輩の隣には、私が居たいのに―――
「すみません、お待たせしてしまいました・・・!」
あっという間にやってきた誕生日。先週先輩と別れてから、まだかな、まだかななんて、遠足を楽しみにする小学生みたいにそわそわしていた。
本当は、今日に日付が変わるその瞬間、メールをくれるんじゃないかとか思ってた。
先輩が今日のことを覚えてるんじゃないかなって、知ってるんじゃないかなって、期待してた。
でも、彼からそのことについて言ってこない限り、流石に自分から“今日誕生日なんです!”なんて言えるわけない。
「さて、行こうか」
「何のお店にしたんですか?」
「・・・着いてからのお楽しみ。でもその前に、ちょっとだけ寄りたいところがあるんだけど良いかな」
「はい」
少し歩くんだけど、と彼の言うその場所へ。
狭い歩道を二人並んで歩けば、私の左手を、彼の右手が、掠める。
「あ、ごめんなさ・・・・・・っ」
ぶつかってしまったと謝れば、次の瞬間、彼の体温に包まれた左手。
彼の右手が、私の左手に重なった。
―――何、これ。
先輩と手をつないでいる。
その状況に心臓が口から飛び出そうなほどに驚いた。
隣の彼を見上げれば、その横顔はただ真っ直ぐに前を向いたまま、何も言ってはくれなかった。
なんで。どうして。
あなたは好きな人が居るって言ったじゃない。
わたしを、妹だと、そう言ったじゃない。
でも。
先輩になら、弄ばれても良いと、本気で思った。
「・・・うわ、」
「ね、綺麗でしょ?」
海に面した公園の、夜景。
そういえば、昼間通ったことはあるけれど、こんな時間に来るのは初めてかもしれない。
手すりにもたれ、そのキラキラとした景色を吸い込まれるように見つめていた。
どれくらいそうしていたかわからないけれど、急に感じたぬくもりに驚いて肩を震わせた。
後ろから私を包み込むようにして、手すりに捕まっていた手の上に重ねられた彼の、手。
それから、ちょうど私の頭の上に、彼の顎が乗せられている。
どうしよう、そんなことを思うよりも先に、彼が口を開いた。
「前に相談したと思うんだけどさ」
「・・・はい?」
「危なっかしくて、何をするにも目が離せない、守りたくなる年下の女の子の話」
ああ、それは、先輩が好きな―――
「なまえちゃんのこと、なんだけどな」
「・・・・・・え・・・!?嘘っ・・・だって・・・・・・私のこと妹だって言って、」
ぎゅっと後ろから抱きしめられれば身動きなんて取れなくて。
「僕は冗談でこんなことしないけど」
「・・・っ」
「なまえちゃ・・・え、ちょっと、何泣いてるの!?」
抱きしめられた腕が解かれて、私の顔を覗き込んできた彼。
「・・・だって、・・・私、絶対、先輩の恋愛対象になんてなれないんだって、思ってて、それで」
心の中にしまっておいた想いが溢れ出すみたいに、ポロポロと大粒の涙が頬を伝う。何度も、何度も。
ずっとずっと願っていたことが、叶うなんて思わなかった。いま私は、きっととても不細工な顔をしていると思う。
「それは、ごめん。だって、君がいつまでも僕を“先輩”って呼ぶからちょっと意地悪した」
「・・・・・・へ!?」
「で、どうなの?君にとって僕はずっと先輩のまま?」
ふるふると、首を振って否定した。
違う、違う。ずっと前から、出会った時から、あなたは私の好きな人でした。
それを、なんて伝えたら―――
「そ・・・・・・総司、さん」
瞬間、痛いくらいに抱き締められた。
「ああもう、可愛いんだからっ」
広がる彼の匂いに、ドキドキする。
でも、目の前の胸からも聞こえるドキドキに、なんだかホッとした。
いつも余裕たっぷりで居る彼も、私と一緒。
ずっとドキドキしてたんだろうなって。
きっと、手をつないだあの瞬間も、もしかしたら、その前からずっと。
「ねえ、もう一回呼んで」
「・・・総司、さん」
細められた翡翠の瞳。
なまえ、と呟くように私の名前を呼ぶ声が聞こえた瞬間、重なった唇。
「誕生日、おめでとう」
世界で一番幸せ者になれ
END
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