乗り換えに使う駅ナカの、雑踏が耳障りな本屋にだいぶ前から通っている。
「すまないが、取り寄せをお願いしたい」
わざわざ外に出なくとも事足りる、便利なその場所は狭いながらも俺好みの本を置いていた。
一通り店内を見渡すが、今回は目当ての本が見つからず、近くに居たスタッフの彼女に初めて声を掛けた。
少し忙しそうにしてはいたが、嫌な顔一つせず、はきはきとした声で「はい」と返事をした後で、
「かしこまりました」
と、ふわりと笑った。
絡まったのは、一縷
いつも決められた接客用語しか聞いた事のない彼女の瞳を、その日初めて見た。
「い・・・忙しいところ、すまない」
「いえ・・・・・・えっと、お探しの本の詳細をお伺いしてもよろしいですか?」
「あ、ああ・・・」
絵画や、芸術的な何かに見惚れる事は幾度かあったが、人に見惚れるなど初めての事。
どうして良いか分からず黙り込んでいた俺に、取り寄せの用紙を取り出した彼女が不思議そうに問うてきた。
慌てて、手帳に書きとめていた走り書きを彼女に差し出すと「この本、仕入れようと思ってたんです」と、今度は嬉しそうに笑った。
それからは、用も無いのに立ち寄る回数も増え、彼女からの挨拶が、“いらっしゃいませ”から“こんにちは”に変わって行った。
年下だと思っていた彼女は、俺よりも3つ年上で。言われてみれば確かに、礼儀正しい所や細かいしぐさなど、大人の女性を思わせる。
「斎藤さん、この間お話していた作家さんの新刊、読みました?面白かったですよ」
本を取り寄せるために記入した名前を、いつからか彼女は呼んでくれるようになっていた。
「いや、まだ・・・」
気さくで、仕事熱心で、本が大好きな彼女は、意外とおしゃべりだった。
「あ、じゃあ・・・・・・ちょっと待ってて下さいね!」
今までなんとなく聞いていたありきたりな言葉達も、心地よく響く。
思いついたような顔をしてスタッフ専用口の扉をくぐった彼女は、数分して戻ってくると、周りをきょろきょろとしながら、俺にこっそりと本を手渡した。
「これ、よかったら・・・お貸しします」
「・・・・・・客に本を貸す本屋の店員など、聞いたことが無いな」
「あはは、そうですね」
桜色をしたキャンバス地のブックカバーは、彼女の頬と同じ色。
帰りの電車で、彼女から借りた本を開いて、つづられた文字を目で追いかけた。
本屋の店員である彼女が勧めるだけあって、すぐに引きこまれ、読みかけの状態にするのがもどかしい程。
男の俺が持つのには不自然なそのブックカバーも、なんとなく、そのままにしていた。
「すまないが、いつもいる・・・背の低い女性は・・・」
「・・・?あ、ああ!みょうじさんですか?」
読み終えた本を返そうと、何度か本屋に立ち寄ったが、彼女の姿を見ることができず、レジに居たスタッフに声を掛けると、言いにくそうにしながらも、彼女の事を教えてくれた。
「実は先日・・・」
今更ながら、彼女の名を知った。
ずっと呼びたいと思っていたが、名札も付けていない彼女にどう聞いて良いか分からず。
「みょうじ・・・」
先程知ったばかりの彼女の名を呟いて、浮かんだ笑顔は、そのままで居てくれれば良いと願う。
不安になりながら飛び乗った電車で、彼女の居る病院へと向かっていた。
『実は先日、過労で倒れてしまって。私たちも彼女に頼り過ぎていた部分があったかもしれません』
「みょうじなまえさんですね?206号室です」
病室の扉の横に、彼女の名前が書かれたプレートがあり、初めてその文字を目にすると、少しだけ、不思議な心地がした。
そして、わざわざここまで来たものの、どうするべきかと戸惑い、しばし悩んでいると、後ろから聞こえた馴染みある声に、慌てて振り向いた。
「え!?さ、ささ・・・斎藤さんっ!??な、なにっ、て・・・や、ああああれ?やだ私、すっぴんっ!!ちょっ・・・ええ!?」
「お、落ち着け、みょうじ」
「・・・・・・む、無理ですっっ!!」
廊下でうろたえていた彼女を、なんとか落ち着かせ、俺がここに居る経緯を話していた。
「・・・・・・こんなの、いつでも良かったのに。ありがとうございます」
鞄の中から取り出した、桜色のカバーに包まれた本を彼女へと手渡すと、大事そうにぎゅっとそれを抱き締めた。
その様子がとても可愛らしくて、思わず頬が緩んでしまう。
「体調は、どうだ?」
「・・・・・・皆大げさなんですよ。私、病人に見えますか?」
顔を合わせた時、少し青白い顔をしていた彼女の頬が、今赤く染まっているのは、元気になったから、という解釈をして良いものかどうか。
「いつも通り、だと・・・」
「ね?ほら、私、元気です」
そうして零した笑顔は、やはり何処か、無理をしているようにしか見えなかった。
「みょうじ・・・」
「・・・は、はい!?」
「あまり、無理はするな。時には周りを頼っても誰も怒らん。あんたが一生懸命なのは皆知っている」
俺の言葉を聞いてホッとしたらしい彼女の肩が、少しだけなだらかになった気がする。
「・・・・・・斎藤さんは、優しいですね」
そう呟いた時の表情は、初めて見るものだった。
ありのままの彼女を見たような気がして、少しだけ気恥ずかしくなり、慌てて立ち上がった。
「お、俺は、本を返しに来ただけだ。これで、失礼する」
「・・・・・・ありがとうございました」
ベッドに腰かけたままの彼女が、ペコリと上半身を折った。
返した本を、彼女がいつ開くか。
それを少しだけ気にしながら、一度だけ、彼女の病室を振り返り、病院を後にした。
彼女がいつ退院するのかも分からぬまま。
あの本屋へ立ち寄る理由が、彼女に会うためになっていた事に、苦笑いが浮かぶ。
「俺は、何を・・・・・・」
店の前で、まだやはり彼女が居ない事を確認し通り過ぎようとした瞬間、震えた携帯に表示された番号に、もしやと思いながら通話ボタンを押した。
「・・・はい」
『・・・・・・あ、の・・・みょうじ、です』
そのか細い声に、一気に上昇した心拍のせいか、急に身体が震え出した。
「・・・・・・どう、した」
自分の鼓動に押しつぶされそうになりながら、やっとの事で口を開く。
『・・・えっと、先程・・・返していただいた本にはさまっていた名刺を拝見いたしまして・・・』
「・・・っ、」
自分でも、何をやっているのだと思った。
『それで、ですね・・・あの・・・実は・・・』
いつも、硬い挨拶を交わす時にしか出番のないそれの、真っ白い裏に、書きなぐった言葉。
『あなたに声を掛けてもらう前から、ずっと、ずっとあなたを目で追っていました。・・・私も、斎藤さんが、好き・・・です』
“あんたの、笑顔が好きだ”
END
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